恋する若者にとっては、ただ愛するあの人だけが、すべてのものごとをの鍵を握っているように感じられます。
かれの中で起こる世界消失のプロセスを、鬼気迫る臨場感とともに描いた作品としては、やはり、ゲーテの不朽の名作『若きウェルテルの悩み』を忘れることはできません。
「わたしもこの世もない。ただ、彼女だけが……。」それはまさしく、バクティの熱狂であり、わき目もふらぬ崇拝の行為です。かれの進行に歯止めをかけるものは、おそらくこの世には存在しないのではないでしょうか。
ヴァルター・ベンヤミンは、人類が近代という時代を迎えるにつれて、崇拝という行為にもとづく価値が社会のうちから消滅してゆくという意味のことを言っていますが、とんでもない。
むしろ、近代の到来とともに、崇拝にもとづく価値はいたるところで爆発的に増大していったようにみえます。シャルロッテ、ナジャ、ナオミといった女性たちはそのほんの一例にすぎませんが、近代の作家たちが、いかに敬虔に彼らの信仰の対象について書きつづけたことか。
機械の誕生とともに複製技術が社会の前面を覆いつくしてゆくとしても、愛する彼女のうちにだけは、まさしく彼女のうちにしかないあのアウラがいつまでも宿りつづけます。このあたりの事情については、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』という作品をぜひ読んでみてください。
ところで、信仰者の立場からすると、まことの神ではないものを神として崇める行為は、偶像崇拝と呼ばれています。
「愛しい彼女」という形象こそ、おそらくは近代という時代が生みだした最大の偶像の一つであり、さらには、およそ存在しうるもののうちでも飛びぬけて際立っている、偶像の中の偶像にほかなりません。
この件についてはまずもって、崇拝の行為にふけった男性のうちにこそ罪があるということは間違いありません。どうやら、女性たちのうちには、この行為へと男性をそそのかす人たちがいるということもまた、否定することができないようですが……。
ひょっとすると、ダンテ・アリギエーリこそは、この背神の習慣の創始者であるといえるのかもしれません。かれは確かに『神曲』を書きあげましたが、こともあろうに、あの壮大な叙事詩の中心に、ベアトリーチェという偶像を持ちこんでしまったからです。