もしも、ひとを天上に向かわせるものを霊と呼び、地上に引きとめるものを肉と呼ぶならば、恋の体験においては、霊と肉とが分かちがたいしかたで混じりあっているといえます。
恋の体験における愛しい彼女は、その存在論的なステータスにかんして、二つの極を持っています。すなわち、性をもった身体と、完璧なあなたのイメージです。
二つの極のどちらが欠けても、恋なるものは成立しません。堕天使的なものとは、この二つのものの混合のことを意味しますが、例のあの悪魔的な彼女は、この堕天使的なものによって若者の魂を奪い去ろうとする存在であるといえます。
恐ろしいのは、肉ではありません。純粋に肉なるものを欲望するのは賢いことではないという事実を、おそらくは誰もが無意識のうちに知っています。
人間を本当の意味で破滅に向かわせるのは、純粋な霊のふりをした肉であり、肉的なもののうちに埋めこまれた霊的なるものです。悪魔的なもの、すなわち堕天使的なものは、おそらくは人間がとうてい測り知ることができないほどの深淵を抱えこんでいるのではないかと思われます。
本題に戻ります。恋する若者は、まだ知恵の探求のはじめの地点にいるにすぎず、肉の目を超えてものごとを眺めることを学びはじめたばかりです。
哲学という営みは、真の実在の探求にほかなりません。「本当の意味で〈あるもの〉とは、一体何なのか。」哲学者は探求を進めるにつれて、〈あるもの〉についての認識を次々と新しいものに改めてゆきます。
物体が存在する。コギトが存在する。いや、そもそものことを考えてみるならば、どうも、〈存在〉が存在するといわざるをえないのではないか……。探求は、あらゆる先入見とコモン・センスを超えて進みます。
哲学の初学者は、おそらく、あの魔法使いの弟子のようなものです。霊と肉をめぐる鍛錬の途上で悪魔にたぶらかされて、「真に実在するもの、それは〈彼女〉である!」と結論をくだすとしても、無理はないというものかもしれません。