ところで、実在の探求というテーマについては、今回の話題とも関連しますが、ひとつつけくわえておくべきことがあります。
恋する若者は叫びます。「真に実在するもの、それは〈彼女〉である!」この叫びがある意味で厄介なのは、ここには真実の一片が含まれているからです。
今回は補足ということなので、結論だけを急ぎ足で見ておくことにしましょう。このブログの筆者には、〈真理〉なるものには女性的なところがあるというのは、どうやら否定しがたいように思われます。
この点については、世界中のあらゆる哲学と宗教の伝統が、揃って「知恵は女である」と証言しています。その中でもとくに忘れがたいのは、ゲーテのあの〈永遠に女性的なるもの〉という表現です。
この表現は、大作『ファウスト』の最後を飾る言葉であり、ゲーテの根本思想に触れるものであることは間違いなさそうです。この人は、シェイクスピアと同じで、堂々たる構造物を組みあげる才能と同時に、真実をぴたりとフレーズで言い当てるセンスも備えていたように思われます。
さて、信仰者の観点からすると、この〈永遠に女性的なるもの〉をそのまま認めてしまうと、ただちに一つの問題に行きあたります。なぜならば、信仰の言葉は、「神、それは父である」と語っているからです。
ここが哲学において実に重要なポイントをなしているのではないかと、このブログの筆者は考えています。
世界を見渡してみるならば、あらゆる文献と作品は、あの〈永遠に女性的なるもの〉についての大合唱でわき立っている。
それに反して、父なるものについて語る真実の言葉がこんなにも少なく、偽の父をめぐる歴史上の惨事が後を立たないのは、なぜなのだろうか……。
性をめぐる言説は前世紀に爆発的な増大を迎えたので、そろそろ、哲学においても総括的な試みが現れてもよいころのように思われます。今回は引きつづき恋と信仰の関係について考えてゆくことにしますが、この話題はいずれ詳しく論じることにしようと思います。