このあたりで、筆者自身の信念について書いておくことにします。一般に受け入れられにくいということを認めたうえで、筆者には、人権というイデーの根拠は、最後のところでは次の点に求めるしかないのではないかと思われます。
「神が、私たちの一人一人を愛している。」
このことがもしも正しいとするならば、人権は、私たち人間を超えたところにその根拠をもつことになる。飢えたものや病気のものに食べさせること、貧しいものに富を分かち与えることは、時代や地域を問わず、あらゆる人間に求められているということになるでしょう。
もちろん、このことを信じるようにひとを強制することは誰にもできません。カントが言うように、隣人愛を実践するようにひとに強いる社会を作ろうとすると、かえって最もおぞましい社会を作りあげてしまう危険があります。
けれども、人間には、自分が信じていることを他の人にも問いとして投げかけてみることはできる。信仰者は、みずからの信念を他の人びととの対話のうちで表明しつつ、生きることのよさをめぐる対話をさらに深めてゆくことができるのではないかと思います。
聖書には、次のような言葉があります。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
たとえ世界中の誰からも愛されていないとしても、わたしは、世界を超えたところからいつでも愛されている。この愛は、けっして消えることがありません。何を根拠にそう言えるのかと問いただされるとしたら、キリスト者は「今から二千年前に、神が私たちのために死なれたからです」と答えることでしょう。
近代という時代からすればとんでもない話ですが、僕は、この現代という時代は、少なくとも信じることの問題を真剣に問わなければ、ニヒリズムに落ちこむことは避けられないのではないかと思う。この点については、これからもさまざまな人と対話を重ねてゆきたいところです。
「神が、私たちの一人一人を愛している。」
このことがもしも正しいとするならば、人権は、私たち人間を超えたところにその根拠をもつことになる。飢えたものや病気のものに食べさせること、貧しいものに富を分かち与えることは、時代や地域を問わず、あらゆる人間に求められているということになるでしょう。
もちろん、このことを信じるようにひとを強制することは誰にもできません。カントが言うように、隣人愛を実践するようにひとに強いる社会を作ろうとすると、かえって最もおぞましい社会を作りあげてしまう危険があります。
けれども、人間には、自分が信じていることを他の人にも問いとして投げかけてみることはできる。信仰者は、みずからの信念を他の人びととの対話のうちで表明しつつ、生きることのよさをめぐる対話をさらに深めてゆくことができるのではないかと思います。
聖書には、次のような言葉があります。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
たとえ世界中の誰からも愛されていないとしても、わたしは、世界を超えたところからいつでも愛されている。この愛は、けっして消えることがありません。何を根拠にそう言えるのかと問いただされるとしたら、キリスト者は「今から二千年前に、神が私たちのために死なれたからです」と答えることでしょう。
近代という時代からすればとんでもない話ですが、僕は、この現代という時代は、少なくとも信じることの問題を真剣に問わなければ、ニヒリズムに落ちこむことは避けられないのではないかと思う。この点については、これからもさまざまな人と対話を重ねてゆきたいところです。