イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

メシア的瞬間について

 
 「メシアがこの世にやってきた」という知らせを聞く時には、ひとはメシア的瞬間とでも呼ぶべき時間性にかかわりを持つことになります。


 メシア的瞬間は、人間にたいして法外な真理が提示される場にひとを引き込みます。この真理は、理性に反するわけではありませんが、理性を超えたところから閃光のようにして示されるので、ひとはこの真理にたいして推論による判定を下すことができません。


 その結果、メシア的瞬間にさいしては、ひとは次の二つの応答のうちのいずれかを選びとってしまっている自分に気づくことになります。


 1.信じない。メシア的瞬間に提示される知らせは、まさに「誰がそのことを信じられるだろうか」というほどに法外なものなので、たいていはこちらの反応を選びとることになる。この知らせを信じることは人生観を180度転換することになるので、それも当然といえば当然といえます。


 2.信じる。メシアが到来したという知らせを信じることは、何よりもまず、信じてしまったその人自身にたいして途方もない驚きを引き起こすことになる。それはあらゆる価値観をひっくり返すという意味で、狂気そのものとしかいえないような瞬間です。



メシア的瞬間 理性 真理 狂気


 
 メシア的瞬間において信じるという出来事は、信じるその人の意志を超えて起こります。


 風はどこから来て、どこへゆくのかを知りませんが、そうした風のような命の息吹がひとのうちに入りこむ時に、信じるという出来事は起こります。そうでなければ、人間は、メシアがやってきたなどという、愚かにも聞こえる知らせを信じることなど決してできないでしょう。


 しかし、神の愚かさが人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いとしたら、どうだろうか。神が、人間の思いをはるかに超えるようなしかたで自らを告げ知らせることを選んだとしたら。メシア的瞬間という概念は、人間を、そうした問いかけが生まれる場に立ち会わせずにはおかないもののように思われます。