イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

根源的な無知について

 
 哲学と神学の境界不分明性テーゼ
  :  ひとは、哲学がどこで終わり神学がどこで始まるのかを、確定することができない。


 このテーゼがもたらす結果は、哲学的にみてきわめて重要であるように思われます。このテーゼの系を見ておくことにしましょう。


 境界不分明性テーゼの系
  : すべての人は、哲学者であるならば、神学者でもある。


 たとえば、「哲学は、神について論じる必要はない」というのもひとつの信仰なので、その意味では「神学的」な背景をもつといえるのではないか。


 また、「死ねば無になる」という信念を抱いている人のうちには、この信念が疑問の余地なく正しい事実だと確信している人が時おりいるように思われますが、対話するさいに相手の言い分をまったく聞き入れないならば、これはもうほとんど、狂信者や原理主義者の態度に近いといえるかもしれません。その信念が正しいことも、論理的には十分にありえますが、誰もその信念の正当性を論証することはできないからです。


 すべての哲学者が神学者であり、またその逆に、すべての神学者が哲学者でもあるならば、知恵を探し求めるすべての人びとにとって重要なのは、論証ではなく、対話になります。すなわち、孤独なモノローグのうちでロジックを積み立てるだけではなく、自分とは異なる信念をもつ相手の主張をじっくり吟味しながら、互いに相手のことを思いやりつつ語りつづけることが求められるでしょう。



哲学 神学 ソクラテス キルケゴール ハーマン キリスト



 「私たちは、生きることと死ぬことにおいて何が重要であるのか、論証できるようなかたちでは何も知らない。」


 筆者は、哲学のうちで最も大切な教えの一つは、この無知の教えなのではないかと考えています。絶対的な真理を証明できるような人は、この世にはおそらく誰もいません。


 けれども、人間は生きることのよさについて語ることを、決してやめることはないでしょう。生と死について語りつづけること、哲学をすることは、人間の最も高貴な営みの一つでありつづけるでしょう。


 筆者は、キリストのことをこれからも信じつづけつつ生きようと思っていますが、この無知の教えは、これからも決して手放してはならないものなのではないか。この点では、キルケゴールやハーマンにならって、ソクラテスという人に最大の賛辞を贈ることは不当なことではないのではないかと、筆者は考えています。