さて、人間が置かれている状況は、次のようなものであると思われます。
1.誰もが、根源的なしかたで無知である。
2.それにも関わらず、誰もが何かを信じつつ生きている。
1のような根源的無知のモメントを自覚するとき、ひとはソクラテス的な知恵を生きることになるといえます。けれども、その人は同時に、この世で行為しつつ生きていかなければならない。何かをするのが行為なら、何もしないのも一つの行為です。
かくして、すべての人は2の次元をも生きなければならない。この次元においては、人間はすべて哲学者であると同時に神学者です。人間は自分の信じるところにしたがって、死ぬまで生きつづけなければなりません。
メシアの知らせは、1と2の絡みあいの中で生きる人間に、ひとつの可能性として提示されます。
3.神が人間に生きる道を示すために、メシアを遣わした。
この知らせは、次のような内容を含んでいます。「人間が生きるべき道、それは、隣人への愛に生きることだ。困難ではあるけれども、互いに愛しあうことのうちにこそ、人間の真の幸福がある。」
ここで、筆者自身の意見を述べさせてください。
人間が、1に見られるような根源的無知の状況に置かれているのは、信仰の立場からみると、とても意味深いことなのではないか。それというのも、根源的無知の事実があるからこそ、ひとは神のことを自由な意志によって信じるしかなくなるからです。
誰も、神が存在することを論証のかたちでは証明することができませんが、逆に、もしそんなことができるなら、ひとは神に強制的に従わざるをえないことになってしまうでしょう。その場合、中世のアンセルムスという人が考えたように、頭のよい人は神の存在を認識し、そうでない人は神のことを知らないままにとどまるということになってしまいます。
そうではなく、むしろ神は、愛という愚かさによって人間に自らを告げ知らせることを選んだのではないか。この選択のうちにこそ、神の知恵が表れており、哲学にはこの知恵ある愚かさについて思惟しぬくことが求められているのではないかというのが、根源的無知の状況に置かれている一人の人間として、筆者の信じているところです。
1.誰もが、根源的なしかたで無知である。
2.それにも関わらず、誰もが何かを信じつつ生きている。
1のような根源的無知のモメントを自覚するとき、ひとはソクラテス的な知恵を生きることになるといえます。けれども、その人は同時に、この世で行為しつつ生きていかなければならない。何かをするのが行為なら、何もしないのも一つの行為です。
かくして、すべての人は2の次元をも生きなければならない。この次元においては、人間はすべて哲学者であると同時に神学者です。人間は自分の信じるところにしたがって、死ぬまで生きつづけなければなりません。
メシアの知らせは、1と2の絡みあいの中で生きる人間に、ひとつの可能性として提示されます。
3.神が人間に生きる道を示すために、メシアを遣わした。
この知らせは、次のような内容を含んでいます。「人間が生きるべき道、それは、隣人への愛に生きることだ。困難ではあるけれども、互いに愛しあうことのうちにこそ、人間の真の幸福がある。」
ここで、筆者自身の意見を述べさせてください。
人間が、1に見られるような根源的無知の状況に置かれているのは、信仰の立場からみると、とても意味深いことなのではないか。それというのも、根源的無知の事実があるからこそ、ひとは神のことを自由な意志によって信じるしかなくなるからです。
誰も、神が存在することを論証のかたちでは証明することができませんが、逆に、もしそんなことができるなら、ひとは神に強制的に従わざるをえないことになってしまうでしょう。その場合、中世のアンセルムスという人が考えたように、頭のよい人は神の存在を認識し、そうでない人は神のことを知らないままにとどまるということになってしまいます。
そうではなく、むしろ神は、愛という愚かさによって人間に自らを告げ知らせることを選んだのではないか。この選択のうちにこそ、神の知恵が表れており、哲学にはこの知恵ある愚かさについて思惟しぬくことが求められているのではないかというのが、根源的無知の状況に置かれている一人の人間として、筆者の信じているところです。