イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

二者択一の脱構築

 
 「キリストの方に突っ走りすぎたら、誰にも読んでもらえなくなるんじゃないの。」最近、助手のピノコくんからこのように言われることが、たびたびありました。確かに、先月の『メシア入門』では、かなりディープなところにまで、わき目もふらずに突っこんでしまった気もします……。
 

 「あらゆる哲学は神学でもある」というのが筆者の主張であるとはいえ、いわゆる「あっち側の人」認定されてしまったら、哲学としても受けとめてもらえなくなるのではないか。ここで取るべき道としては、次の二つの選択肢が考えられます。


 1.気にせず、神の国の福音を宣べ伝えまくる。
 2.哲学と信仰の関係について、哲学的に考えてみる。


 1の道は、あっち側の人認定など気にせず、ただひたすらに伝道者としての道を爆走することを意味します。とにかく熱いことは確かですが、いくら魂の炎を燃やしたとしても、周囲に誰もいなければ、孤独なマラソンをいつまでも続けることになりそうです。


 やはり、2のあたりでとどめておいた方がよいのだろうか。しかし、人生は一度しかない。キリストを伝えられるチャンスは、他でもない、この人生しかないのである……。



神学 哲学 キルケゴール プロティノス ヘーゲル ニーチェ



 「この人生を、哲学者として生きるべきか、それとも、宗教者として生きるべきか。」


 この二者択一には、先輩のキルケゴールも一生のあいだ頭を抱えつづけていたようです。プロティノスヘーゲル、あるいはニーチェなどのことを考えると、哲学者と宗教者のあいだには、実はほとんど区別はないのではないかという気もしてきますが……。


 哲学と宗教という二項対立を脱構築して、哲学が宗教になり、宗教が哲学になるという生成変化の秘密を生き抜くのが、現代の哲学者の使命ではないか。コンスタティヴには哲学者であり、パフォーマティヴには宗教者であるというライフスタイルが、ありうるとしたら……。


 というわけで、最近は進むべき道について、あれこれ思案しています。「そんなことより人生と生計をどうする」という声も聞こえてきそうですが、哲学にしても宗教にしても、真理だけを求めるのは変わらないということで、この忌まわしい声からは全速力で逃げることにします……!