イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学で何よりも大切なもの

 
 さて、哲学の練達への道をたどるにあたっては、とにもかくにも次の点だけは欠かせないように思われます。


 「何はなくとも、哲学を愛して愛して、愛しつくす。」


 孫悟空は、なぜ、超サイヤ人3の高みにまで達することができたのでしょうか。使徒パウロは、なぜ、初期キリスト教最大の伝道者になることができたのでしょうか。それは、彼らが武道を、そしてキリストの道を魂の底から愛しぬいたからにほかなりません。


 おそらくは哲学者も、自分が哲学をやっているのか、むしろ哲学が自分そのものなのかすら判別がつかないというくらいの狂気の愛の次元に足を踏み入れるほどに、哲学を愛しぬかなければなりません。人が哲学をする動機としては、ここではとりあえず、次の三択を考えておくことにしたい。


 1.世界を滅ぼしてでも、エゴイズムを肯定する
 2.カカロットだけには負けたくない
 3.オラ、哲学が好きだ


 1はフリーザやセルをはじめ、あまたの敵キャラがたどった道ですが、このニヒリズムの道では、おそらく何をどうやっても、岩波の殿堂入りを果たすことはできません。


 これに対して、2は、ライバルに負けたくないという誇り高きサイヤ人の意地ともいえますが、結局はカカロットを超えるというより、当のカカロットの引き立て役になってしまう可能性が非常に高そうです(伝説の名ゼリフ、「がんばれカカロット……。お前がナンバー1だ!」を参照)。


 
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 やはり、ここは問答無用で3の道をぶっちぎるしかないように思われます。寝ても覚めても、病んでも絶望しても、とにかく哲学を探求することの喜びを、生きているかぎり全力で追い求めつづけること。


 人生をかけて哲学を本気で追求しつづけていると、必ずどこかで「もう生きていること自体が辛い」という時がやってきます。無理をするべきではないですが、それでもこの道は、最後のところでは文句なしにすばらしい。世の中からはどんどん哲学の居場所がなくなっていっていますが、そんなことはどうでもよくなるほどの喜びが、この道のうちにはあります。


 筆者は、世界が、これからの若者が何も気にせずにただ哲学することの喜びを追求できるような場所であることを希望します。人類がつづくかぎり、哲学は、人間のなしうる最もエキサイティングな営みでありつづけるでしょう。