イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学史との対峙

 
 哲学を極めようとする人には、過去の先人たちとの対話に加えて、次のような課題を引き受けてゆく必要があります。


  「自分なりの哲学史の見方を練りあげてゆくこと。」


 哲学には、時代とは関係のない永遠の真理を追い求めるという側面も確かにありますが、真にクリティカルな思考は、やはり時代との対峙のうちから閃き出てくるという側面があることは否定できません。


 この点からすると、ヘーゲルハイデガーのなしたことは、実にスケールの大きいものだったということができます。彼らは、哲学の歴史が人間の歴史とクロスオーヴァーし、考えることがそのまま人類そのものの歩みにつながってゆくという、とてつもないヴィジョンを抱いていました。
 

 筆者自身は、哲学の歴史の全体を「思考の神への帰還」のプロセスとして捉えることができるのではないかと構想しているところです。イデアや魂、そして神といったトピックについては、哲学で語られなくなったように見えて、実はふたたび語るための準備が歴史的にみて整いつつあるのではないか……。



哲学 ヘーゲル ハイデッガー ジル・ドゥルーズ イデア デカルト 永井均
 
 

 この路線で考えてゆくさいの手がかりを、ここで少しだけ思いつくままに挙げておくことにします。


 1.イデアジル・ドゥルーズの差異の存在論は、形而上学におけるイデア論のリバイバルにつながるポテンシャルを秘めています。かれの思索はいわゆる「自然主義的展開」よりも、むしろその方向を指し示しているのではないか……。


 2.魂。永井均先生の「〈私〉の哲学」は、デカルト的な哲学の王道を正面から引き受けなおすものであるといえるのではないか。この点からすると、現代という時代において魂なるものについて語りはじめるための道が、ふたたび開かれつつあるのかもしれません。

 
 3.神。現代イタリア思想が神学への際だった接近を見せているという事実もとても重要ですが、ここはやはり、ハイデガーの「最後の神」に触れておきたい。筆者は、この謎めいた概念をどのように思索するかということが、哲学の運命を決定するほどに重要な論点なのではないかと考えています。


 ……というのが筆者の今のところの大まかなヴィジョンですが、この点については哲学者の数だけヴィジョンがあるといえそうです。先はまだまだ長そうですが、思考の歴史をめぐる熱いバトルを繰り広げるようになれるとしたら、玄人の領域に少しだけ近づいたといえるのかもしれません……!