哲学を極めるために必要なことを考えるという今回の探究も、そろそろ大詰めを迎えつつある気がします。人生をかけて追い求めてゆくべき課題として、次のものを掲げておくことにします。
「何よりも、真理そのものを最優先しつつ、この人生を生きぬくこと。」
その人があるものごとに対して本気であるかそうでないかは、おそらくはその人の言葉の表面よりも、ずっと深いところに示されてしまうものなのではないでしょうか。そして、好きこそ物の上手なれというのは、哲学に関してもそのまま当てはまる真理であるように思われます。
しかし、哲学の道を追い求めるということは、たんに自分が好ましいと感じるものごとについて考えることではありません。哲学者は、それこそおのれを捨てきって、真理そのものに仕える人間にならなければなりません。
これは、少し強い言葉を用いるならば、いわば真理の召し使いとなることであるといえるかもしれません。
ただし、真理は人を従わせるものであると同時に、人をかぎりなく自由にするものでもある。哲学者は、誰よりも自由な人間になるために、誰にもまして真理に忠実に従ってゆくことを求められているといえそうです。
現代的な感覚からすると、自らすすんで召し使いになるというのは、愚かな選択以外の何物でもないようにみえるかもしれません。けれども、主人の不幸というものがあり、召し使いの幸福があるというのも、この世の奥深い秘密の一つなのではないかと筆者には思われます。
真理という主人には、とても厳しいところがありますが、この厳しさは、この主人が人間の幸福について、人間以上によく知りぬいているからこそくるものです。この主人は塩味のきいた言葉をともなう愛によって、知恵の探求に燃える人を最良のしかたで導いてゆきます。
哲学の探求を進めてゆくと、「命の泉のありかは、どうやら自分よりも、真理そのものの方がずっとよく知っているらしい」という確信がだんだん芽生えてゆきます。時には辛いこともありますが、ここはもう、主人の愛を信じてついてゆくしかない。命の泉へは、どちらにしろ自分だけの力ではたどりつくことができません。
ひとつ安心してもいいのは、この主人は、根本のところでは人間を愛してやまない存在に他ならないということです。峠を越えたところでは思いもかけないほどに美しい景色を見せてくれるので、人はいつしか、この羊飼いにみずから喜んでつき従う羊となることでしょう。
「何よりも、真理そのものを最優先しつつ、この人生を生きぬくこと。」
その人があるものごとに対して本気であるかそうでないかは、おそらくはその人の言葉の表面よりも、ずっと深いところに示されてしまうものなのではないでしょうか。そして、好きこそ物の上手なれというのは、哲学に関してもそのまま当てはまる真理であるように思われます。
しかし、哲学の道を追い求めるということは、たんに自分が好ましいと感じるものごとについて考えることではありません。哲学者は、それこそおのれを捨てきって、真理そのものに仕える人間にならなければなりません。
これは、少し強い言葉を用いるならば、いわば真理の召し使いとなることであるといえるかもしれません。
ただし、真理は人を従わせるものであると同時に、人をかぎりなく自由にするものでもある。哲学者は、誰よりも自由な人間になるために、誰にもまして真理に忠実に従ってゆくことを求められているといえそうです。
現代的な感覚からすると、自らすすんで召し使いになるというのは、愚かな選択以外の何物でもないようにみえるかもしれません。けれども、主人の不幸というものがあり、召し使いの幸福があるというのも、この世の奥深い秘密の一つなのではないかと筆者には思われます。
真理という主人には、とても厳しいところがありますが、この厳しさは、この主人が人間の幸福について、人間以上によく知りぬいているからこそくるものです。この主人は塩味のきいた言葉をともなう愛によって、知恵の探求に燃える人を最良のしかたで導いてゆきます。
哲学の探求を進めてゆくと、「命の泉のありかは、どうやら自分よりも、真理そのものの方がずっとよく知っているらしい」という確信がだんだん芽生えてゆきます。時には辛いこともありますが、ここはもう、主人の愛を信じてついてゆくしかない。命の泉へは、どちらにしろ自分だけの力ではたどりつくことができません。
ひとつ安心してもいいのは、この主人は、根本のところでは人間を愛してやまない存在に他ならないということです。峠を越えたところでは思いもかけないほどに美しい景色を見せてくれるので、人はいつしか、この羊飼いにみずから喜んでつき従う羊となることでしょう。