イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

奇蹟の概念

 
 恵みの次元について語るにあたっては、奇蹟という概念をここで導入しておく必要がありそうです。

 
 「奇蹟は、論理的には十分に起こりうる。」


 ここでは奇蹟を、神の意志による介入によって生じる超自然的な出来事と定義しておくことにしましょう。この意味における奇蹟は、自然科学のオーダーを超えてはいますが、自然科学の成果と矛盾するわけではありません。


 さて、奇蹟のように見える出来事が起きたからといって、それがまぎれもない奇蹟であったと論証するのは、おそらくどんな場合にも難しいでしょう。その出来事は、奇蹟の可能性をそもそも信じていない人には、作り事か、何かの間違いだと思われる見込みが高そうです。


 けれども、その反対に、まぎれもない本物の奇蹟が起きるという可能性も、少なくとも論理的には否定できません。奇蹟は、たとえすべての人に対してその真実性を論証することは難しいにしても、真実性を信じることは各人の裁量に任されているといえそうです。



奇蹟 恵み 信仰 哲学



 現代の哲学者としては、奇蹟という概念について論じるのは少し気が引けるところがありますが、信仰者としては、ここで逃げてしまうわけにはゆきません。それは、信仰者は、イエス・キリストが十字架にかけられて墓に葬られたのち、三日目に死者の中から復活したという奇蹟を信じているからです。


 この出来事は、これがもしも本当に起こったことであるとしたら、正真正銘の奇蹟です。その反面、この出来事が実際に起こったことだったと論証することは、今となっては不可能なので、この出来事について人間は、信じることしかできません。


 哲学は、否定もできなければ論証もできないような対象を扱うのが苦手です。けれども、だからといってこうした対象を切り捨ててしまうとしたら、哲学は真理に自分から目をふさぐ危険をおかすことになるのではないか。


 信じるというアプローチを取るしかない、こうした対象のことを、これからは信仰対象と呼ぶことにしましょう。奇蹟は、信仰対象の最たるものであるといえますが、筆者は、この信仰対象というカテゴリーについて考えぬくことは、哲学の新たな可能性を切り開くことにつながるのではないかと考えています。