イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

信仰対象というカテゴリー

 
 信仰対象というカテゴリーは哲学の根幹にかかわると思われるので、ここで論点を整理しておくことにします。

 
 1.信仰対象は、その存在を論証することができない。
 2.それにも関わらず、信仰対象は存在論倫理学にたいして決定的な重要性をもつ。


 このような対象としてはまず、イデアや魂、それに前回に見た奇蹟といった具体例を挙げることができるでしょう。今年一月の『人権はリアルである』において検討したところでは、人権という概念も、この信仰対象のカテゴリーのうちに入るということになりそうです。


 1のモメントがあるからこそ、哲学、とくに近代以降の哲学は、これらの対象のもつ信仰的な側面については、口をつぐむ傾向にありました。


 けれども、2のモメントがあることにより、哲学は信仰対象について沈黙しつづけてきたことによる弊害をこうむるようになってきたように思われます。そのことの具体例については、『倫理の根源へ』や既述の『人権はリアルである』などで、すでにいくつか見てきました。


 信仰対象こそは、自然科学に属することのない、哲学に固有の対象であると言いうるのではないか。自然科学の成果をも検討しつつ、その上で信仰対象について考えぬくことは、哲学の仕事のうち、すべてではないにせよ、きわめて重要な部分をなすのではないかというのが、筆者の考えです。



信仰対象 哲学 差異 ジル・ドゥルーズ ハイデガー 存在の歴史



 後期ハイデガーの「存在の歴史」についての思索や、ジル・ドゥルーズの「差異」の存在論は、すでにいわゆる近代哲学の枠組みを超えて、信じることの問題圏へと入りこんでいたのではないか。哲学史の観点からすると、現代哲学のはじまりは、信仰対象というカテゴリーについてふたたび考えはじめたことによってしるしづけられるといえるかもしれません。


 どこまでが近代でどこからが現代かというのは視点の置き方によっても変わってきそうですが、おそらくは「信じることと知ることの分離」というテーゼが自明でなくなるところに、現代がはじまります。


 私たちは、真理とは何かという問いに、数百年ぶりにすべての前提を捨ててもう一度向き合う必要があるのではないか。このテーマはきわめて重要なので、今回の探求ではここにとどめておくことにしますが、この論点にはまたいずれ立ち戻ることにしたいと思います。