イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

絶対的なものの秘密

 
 ところで、哲学的探究が向かうべきものとは、絶対的なものにほかならないという見方に対しては、次のような意見もありうると思います。


 「人間には、蓋然的なものにとどまることしか許されていない。絶対的なものとは、おそらくは理性の見る夢にすぎないのだから、人間は人間らしい慎ましさで、満足することにしようではないか。」


 このようなポジションは、ひとつの選択としてありうるものです。けれども、それとは別の選択もありうるのではないか。


 人間のうちには、人間自身にもとどめがたい、ある渇望がある。それは、真理そのものを知りたい、あらゆる蓋然的なものの限界を越えて、無制約的なもののもとに到達したいという渇望にほかない。


 この渇望がそれ自身、法外なものであることを、ありそうなものの領域をはるかに超え出るという意味において「法-外」であることを認めたうえで、それにも関わらず、ほとんど狂気にも近い「わたしは知りたい」を追い求めるという道も、ありうるのではないだろうか。


 この「それにも関わらずencore」のうちにこそ哲学的渇望の秘密があるのではないかと、筆者は考えています。筆者としては、この路線にしたがいつつ、絶対的なものの探究としての哲学的探究をこれからも続けてゆくつもりです。



絶対的 哲学 真理 狂気 encore 愛 アポリア


 
 哲学という営みのうちには、本質的に、絶対的なものへと向かわずにはいられない必然性があるとはたして言いうるのだろうか。問題が複雑であるのは、探究者である筆者自身が、これまでの探究のうちで、すでに次のように信じるにいたっているからです。


 「絶対的なものの秘密とは、愛である。」


 ある人が自らの信念を抱くにいたるプロセスは、完全に合理的なものではありえません。たとえば、「哲学はあくまでも合理的なもののうちにとどまるべきである」という信念も、この信念の意味をどのように取るにせよ、その信念を持つにいたるプロセス自体は合理的なものではないという場合が非常に多いのではないかと思われます。


 しかし、ここには、おそらくはより根源的な不可能性とでも呼ぶべきモメントがかかわっているのではないか。それは、哲学的思考をゼロからはじめることの不可能性であり、わたしが何の前提もなしに考えはじめる時には、つねにすでに追いつくことのできない前提にもとづいて考えはじめてしまっているというアポリアです。


 このアポリアアポリアとして引き受けたうえで、愛としての絶対的なものに、すなわち神であるかぎりの神自身に、思考によって近づこうと努めつづけること。筆者にとっては、このことが、今の自分自身にとって哲学という言葉がもつ意味になりそうです。