神の愛は、人間の弱さがその極点にたどりつく瞬間にこそ示される。ここにおいては、おそらく「示される」という言葉の意味のうちに踏みとどまっておく必要があるのではないか。
というのは、ここで示されるのが人間ではなく神の愛である以上、ここで問題になっている示しの行為の主体は、人間ではありえないからです。
人間の側から信じたいことを信じるというのではなく、神自身が、人間の思いに反するかたちで人間に働きかけるというしかたにおいて、人間に自らの愛を信じさせるという可能性。この可能性においては、神が人間を愛することと同時に、人間が神自身によって神の愛を信じることになるのだし、むしろ、この二つのモメントは根底のところではただ一つのモメントをなしているといえるのではないか。
神が人間に自らの愛を示すこと=人間が神の愛を信じること
この等号のうちにこそ、おそらくは信仰なるものの核心があると言えるのではないかと筆者は考えています。ここでは、神の行いと人間の応答が重なり、愛と信仰はもはや別のものではありえません。
カール・バルトや親鸞といった宗教者たちは、このモメントの逆説について強調してやむことがありませんでしたが、そこには、それだけの理由がある。超越者自身のほうから人間に働きかけるというこのモメントには、哲学者も目を向けずにはいられないように思われます。
人間の側から信じたいことを信じるというのではなく、神自身が、人間の思いに反するかたちで人間に働きかけるというしかたにおいて、人間に自らの愛を信じさせるという可能性。この可能性においては、神が人間を愛することと同時に、人間が神自身によって神の愛を信じることになるのだし、むしろ、この二つのモメントは根底のところではただ一つのモメントをなしているといえるのではないか。
神が人間に自らの愛を示すこと=人間が神の愛を信じること
この等号のうちにこそ、おそらくは信仰なるものの核心があると言えるのではないかと筆者は考えています。ここでは、神の行いと人間の応答が重なり、愛と信仰はもはや別のものではありえません。
カール・バルトや親鸞といった宗教者たちは、このモメントの逆説について強調してやむことがありませんでしたが、そこには、それだけの理由がある。超越者自身のほうから人間に働きかけるというこのモメントには、哲学者も目を向けずにはいられないように思われます。
ただし、ここでは、事柄の二つの側面の両方に注目しておくのが重要であるように思います。
1.神については、人間にはその存在を論証することができず、人間は、神の存在については信じるしかない。(無知のモメント)
2.それにも関わらず、人間は、神自身が人間に働きかけているとしか考えられないような瞬間に遭遇する。(知のモメント)
1は、カントが『純粋理性批判』において達成したところの、近代哲学の成果です。今日、この成果については、おそらく誰も否定することができないのではないかと思います。
しかし、筆者は、2のモメントの方も1と同じくらいに重要なものなのではないかと考えています。この瞬間に示される確実性は、ほとんど絶対的と呼びたくなるほどのものであると言いうるのではないか。
ここからは、人間は、神が存在すると確実には知りえないにもかかわらず、神の愛を生きた現実として体験するという逆説的な事態が導かれるように思います。この地点においては、無知と知が極限的なかたちで衝突するといえそうです。