イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

私秘性と無限

 
 前回に見た私秘性という概念について、根本のところに立ち戻りつつ考えてみることにします。


 「わたしにはあなたに、わたしの感じていること、考えていることを、そのまま伝えることができない。」


 わたしのコギトとあなたのコギト、すなわち、わたしの意識とあなたの意識は、交換不可能です。この不可能性とは、その言葉の固有な意味合いにおいて、まさしく形而上学的な不可能性であり、クオリアクオリア、独在性と独在性とをへだてるこの深淵は、原理的にいって乗り越えることができません。


 わたしがどこまでもわたしであり、あなたがどこまでもあなたであるという、このモナドの閉鎖というモメントから、わたしがあなたにわたし自身を完全なしかたで伝達することの不可能性も導かれてきます。そして、このことは、議論を感覚から思考の領域へと移すときに、いっそう際立ってくるといえる。


 わたしはなぜ、今このように考えているのか。あるいは、あなたはなぜ、今そのような言葉を口にしたのか。どちらの場合にも、表面的なレベルを超えて理解しあうことは、本当に難しい。


 それというのも、わたしのコギトも、あなたのコギトも、それぞれの膨大な意味作用の歴史を背後に負っていて、おそらくは、事態を正確にみるならば、コギト同士のコミュニケーションは、どんな場合にもある種の誤解にもとづくといわざるをえないからです。この観点からすると、人間と人間のあいだにはそれだけの深淵が横たわっているということには、どれほど注意を払っても払いすぎるということはないように思われます。



コギト クオリア 不可能性 私秘性 コミュニケーション
 

 コミュニケーションの一般的原理
 : すべてのコミュニケーションは、必ず何らかの誤解にもとづく。


 コギトの私秘性からは、上のような原理が帰結するように思われます。コミュニケーションを透明なものにしようとしてどれだけ努力を尽くしたとしても、その透明さは、ある根源的な不透明さにもとづくものでしかありえないと言えるのかもしれません。


 それにも関わらず、わたしはあなたに何かを伝えようとしつづけることを、やめることができない。わたしとあなたは、そこに語るべき何かがあるかぎり、語りつづけることをやめないでしょう。それはまさに、「終わることのない対話entretien infini」です。


 対話においては、私秘性と真理が、不可能性と無限への渇望が、密接なしかたで絡みあう。哲学という営みは、対話におけるこの絡みあいのうちにいつまでも立ちつづけることなしには成り立ちえないということができるかもしれません。