さて、対話のさいには、次のようなモメントに目を向けておくことも重要であるように思われます。
「わたしの超越から、あなたは語る。」
わたしには、あなたが何を感じ、考えているのかをそのまま知ることは、原理的にいってできません。ただ、あなたの表情や声の調子、それに何よりもあなたの話す言葉から、あなたという人を理解しようと試みることができるにすぎない。
この意味からすると、あなたとは不可視の闇であり、わたしは、あなたという闇から発される光の散乱からあなたを知ろうと努めるのだということになってきます。他者とはだから、「もう一人のわたし」であらざるをえず、わたしには、「わたしの中のあなた」を乗り越えたところにいる「あなたそのもの」にたどりつくことはできません。
ここに、暴力の根源的な源泉があるといえます。それは、わたしがあなたを「わたしの中のあなた」と取り違えるという暴力であり、あなたの声を聴きとるかわりに、わたし自身の記憶をあなたに投影しつつ再生してしまうという暴力です。
わたしはだから、あなたと対話するかわりに、勝手に自分自身の独白をはじめてしまうという危険をつねに抱えている。とくに、あなたが耐えがたいほどの痛みを抱えているという場合には、私の心ない言葉によってあなたを魂の死に追いやってしまうということさえも、起こりうるでしょう。
したがって、わたしに要求されるのは、あなたのことをどこまでも知ろうと努めながら、同時に、あなたがわたしにとって闇であり、超越であるという形而上学的な事実のうちにいつまでもとどまりつづけることであるといえそうです。
わたしのコギトと同じように、あなたのコギトも、わたしには想像もつかないほどの数の記憶に取り巻かれており、あなたはあなた自身の記憶の微小表象の宇宙から、わたしに語りかけています。
あなたのささいなつぶやきのうちに、無限の光の散乱がある。そのことに気づくとき、わたしはあなたに向かって語りかけることをやめて、ただあなたという宇宙を見つめ、耳をすますことに向かわされている自分自身を見いだすことになるでしょう。
筆者は一昨年あたりに目を悪くして以来、本を読むことのできる量が以前よりもずっと減ってしまいましたが、そのぶん著者の声に前よりもずっと真剣に耳をすますようになったことは、自分にとってよいことだったのではないかと思っています。対話する読書というものがありうるということを、最近になってはじめて身をもって知りました。
「わたしの超越から、あなたは語る。」
わたしには、あなたが何を感じ、考えているのかをそのまま知ることは、原理的にいってできません。ただ、あなたの表情や声の調子、それに何よりもあなたの話す言葉から、あなたという人を理解しようと試みることができるにすぎない。
この意味からすると、あなたとは不可視の闇であり、わたしは、あなたという闇から発される光の散乱からあなたを知ろうと努めるのだということになってきます。他者とはだから、「もう一人のわたし」であらざるをえず、わたしには、「わたしの中のあなた」を乗り越えたところにいる「あなたそのもの」にたどりつくことはできません。
ここに、暴力の根源的な源泉があるといえます。それは、わたしがあなたを「わたしの中のあなた」と取り違えるという暴力であり、あなたの声を聴きとるかわりに、わたし自身の記憶をあなたに投影しつつ再生してしまうという暴力です。
わたしはだから、あなたと対話するかわりに、勝手に自分自身の独白をはじめてしまうという危険をつねに抱えている。とくに、あなたが耐えがたいほどの痛みを抱えているという場合には、私の心ない言葉によってあなたを魂の死に追いやってしまうということさえも、起こりうるでしょう。
したがって、わたしに要求されるのは、あなたのことをどこまでも知ろうと努めながら、同時に、あなたがわたしにとって闇であり、超越であるという形而上学的な事実のうちにいつまでもとどまりつづけることであるといえそうです。
わたしのコギトと同じように、あなたのコギトも、わたしには想像もつかないほどの数の記憶に取り巻かれており、あなたはあなた自身の記憶の微小表象の宇宙から、わたしに語りかけています。
あなたのささいなつぶやきのうちに、無限の光の散乱がある。そのことに気づくとき、わたしはあなたに向かって語りかけることをやめて、ただあなたという宇宙を見つめ、耳をすますことに向かわされている自分自身を見いだすことになるでしょう。
筆者は一昨年あたりに目を悪くして以来、本を読むことのできる量が以前よりもずっと減ってしまいましたが、そのぶん著者の声に前よりもずっと真剣に耳をすますようになったことは、自分にとってよいことだったのではないかと思っています。対話する読書というものがありうるということを、最近になってはじめて身をもって知りました。