傷の普遍性テーゼ
: 傷は、実存することの真理とかかわりを持つかぎりにおいて、私秘的なものでありながら普遍性のモメントにあずからずにはいない。
上のテーゼについて、もう少し掘りさげて考えてみることにします。
わたしの痛みをあなたに言うことができないこと、また、わたしの痛みの声をあなたに聴きとってもらえないことは、わたしをさらに痛ませずにはおきません。というよりも、人間にとって何よりも辛いのは、痛むことそのものよりも、痛みを誰とも分かちあえないことなのではないでしょうか。
傷はその本質からいって、わたしのコギトにのみ属するものであり、私秘性をその特質とします。しかし、この私秘性が私秘性のままにとどまり、わたしがわたしのモナドの閉塞のうちに閉じこめられるとき、わたしはまさに、もう死んでしまいたいほどの苦しみを苦しむことになる。
しかし、わたしの苦しみの声をあなたに本当の意味で聴きとってもらうことができたときには、事態は変わってきます。
聴かれるなかで言葉を発すること、発される言葉を聴きとることは、対話するわたしとあなたを、ともに真理のうちに巻き込みます。
この真理は、実存することの真理であり、主体が話す主体であるかぎりにおいて必ず抱えこむことになる、ある根源的な存在欠如をめぐる真理でもある。この真理は、今までわたしにもあなたにも見られることのないままにとどまっていましたが、わたしとあなたの対話のうちで、ようやくおぼろげにその姿を現しはじめます。
そこにおいて明らかになるのは、誰にも言えなかったわたしの苦しみ、聴きとられないことでわたしをさらに苦しめていたこの苦しみが、本当は人間存在そのものの苦しみにほかならなかったという、形而上学的な事実です。
わたしだけが苦しんでいたのではなかった。わたしの苦しみは、これまでに数えきれないほどの人々によって苦しまれた苦しみであり、これからも、無数の人々がこの苦しみを苦しむだろう。その中にはおそらく、わたしよりも深く苦しんだ人も、これからわたしよりも深く苦しむ人もいるだろう。
ただ、わたしはあなたにわたしの声を聴きとってもらうまでは、そのことに気づかなかった。わたしはわたしの私秘性のうちに閉じこめられて、ただわたしだけが苦しんでいるのだと、思い込んでいた。
根本のところではただ、話すことと聴くことだけが、ひとを魂の痛みから救いうるのではないか。このことこそが、弁証法の秘密なのではないか。無知に導くだけでなく、傷の真理を見させること、止揚するだけでなく、死における痛みをわたしとあなたで分かちあうことこそが、わたしたちがいつまでも対話しつづけていることの理由だとしたら。
「対話するということは、語りにおいて、わたしとあなたが存在することの傷をともに苦しむことである。」私たちはこのテーゼから出発して、哲学とは何かという問いについて考えなおしてみることもできるかもしれません。
上のテーゼについて、もう少し掘りさげて考えてみることにします。
わたしの痛みをあなたに言うことができないこと、また、わたしの痛みの声をあなたに聴きとってもらえないことは、わたしをさらに痛ませずにはおきません。というよりも、人間にとって何よりも辛いのは、痛むことそのものよりも、痛みを誰とも分かちあえないことなのではないでしょうか。
傷はその本質からいって、わたしのコギトにのみ属するものであり、私秘性をその特質とします。しかし、この私秘性が私秘性のままにとどまり、わたしがわたしのモナドの閉塞のうちに閉じこめられるとき、わたしはまさに、もう死んでしまいたいほどの苦しみを苦しむことになる。
しかし、わたしの苦しみの声をあなたに本当の意味で聴きとってもらうことができたときには、事態は変わってきます。
聴かれるなかで言葉を発すること、発される言葉を聴きとることは、対話するわたしとあなたを、ともに真理のうちに巻き込みます。
この真理は、実存することの真理であり、主体が話す主体であるかぎりにおいて必ず抱えこむことになる、ある根源的な存在欠如をめぐる真理でもある。この真理は、今までわたしにもあなたにも見られることのないままにとどまっていましたが、わたしとあなたの対話のうちで、ようやくおぼろげにその姿を現しはじめます。
そこにおいて明らかになるのは、誰にも言えなかったわたしの苦しみ、聴きとられないことでわたしをさらに苦しめていたこの苦しみが、本当は人間存在そのものの苦しみにほかならなかったという、形而上学的な事実です。
わたしだけが苦しんでいたのではなかった。わたしの苦しみは、これまでに数えきれないほどの人々によって苦しまれた苦しみであり、これからも、無数の人々がこの苦しみを苦しむだろう。その中にはおそらく、わたしよりも深く苦しんだ人も、これからわたしよりも深く苦しむ人もいるだろう。
ただ、わたしはあなたにわたしの声を聴きとってもらうまでは、そのことに気づかなかった。わたしはわたしの私秘性のうちに閉じこめられて、ただわたしだけが苦しんでいるのだと、思い込んでいた。
根本のところではただ、話すことと聴くことだけが、ひとを魂の痛みから救いうるのではないか。このことこそが、弁証法の秘密なのではないか。無知に導くだけでなく、傷の真理を見させること、止揚するだけでなく、死における痛みをわたしとあなたで分かちあうことこそが、わたしたちがいつまでも対話しつづけていることの理由だとしたら。
「対話するということは、語りにおいて、わたしとあなたが存在することの傷をともに苦しむことである。」私たちはこのテーゼから出発して、哲学とは何かという問いについて考えなおしてみることもできるかもしれません。