イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学を再開する

 
 五月の人生の停止状態のあいだには、シルクロードの勉強に没頭していた時期もありました。そのため、敦煌カシュガルの魅力について書きまくりたい思いも高まっているのですが、そうなると、もはや何のためのブログであるのかわからなくなるので、これから愛について少し考えてみることにします。


 「これからは、愛に生きる。」なるほど。しかし、そうは言っても、人間は愛について、本当に知っているといえるのだろうか。愛は大切だ、とか、愛なんてありきたりだ、とはよく言われることではあるけれど、その前に、まず愛とは何かと問う必要があるとしたら……。


 恐ろしいのは、愛について知らないままに愛の実践に移ろうとすると、実はぜんぜん愛ではないものをあいだと思いこんだまま他の人びとに迷惑をかけてしまうことがありうるということです。この意味からすると、愛していると思いこみながら実は人を傷つけているというケースは、決して少なくないといえるのかもしれません……。


 したがって、愛とは何かという問いを哲学的に突きつめておくことは、人間として生きてゆくうえで最重要の問いのひとつであるといえます。今回は、まずは下のような定式から出発してみることにします。



愛 アガペー 恋愛 ガンディー マザー・テレサ 紫式部
 
 
 
 「愛とは求めるものではなく、与えるものである。」


 他者を求める愛、あるいは他者から何かを求める愛というものもあるかもしれませんが、今回はそういうものを愛とは呼ばずに、ただひたすらに他者に何かを与えつづける愛について考えてみることにしたい。というのも、この世をよいものにする愛があるとすれば、それはこの与える愛のほうではないかと思われるからです。


 たとえば、わが国の不朽の古典である『源氏物語』においては、主人公の光源氏が、恋愛の相手を求めに求めまくります。


 その中で彼が幸せにした女性もけっしていないことはありませんでしたが、全体としてみると、自分も含めたまわりの人びとを、いかんともしがたい不幸のうちに巻きこんでいる部分があることは、否定しがたいように見えます。この点については、作者の紫式部本人も、まさしくその点も含めて恋愛のすべてを描きつくそうとしていたように思われます。


 筆者としては、人生の先が見えないこの時に、恋愛とは何かという問いを考えている場合ではなさそうなので、悩み多きラヴ・ロマンスの深淵は紫式部に任せることにして、マハトマ・ガンディーやマザー・テレサの聖なるアガペー・ワールドのほうに足を踏み入れてみることにします……!




 
 
 
   
[恋愛については、一昨年にウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ』を通して、また、去年に『信仰者とファム・ファタル』で少し考えてみたことがあるので、もしよろしければ、そちらをご覧ください。]