イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

メシア性と独断性

 
 思考の(偽)メシア性の問題については、糾弾と否認というモメントに注目しないわけにはゆきません。


 「思考はメシア的であろうとするかぎりにおいて、必ずその独断性を非難されないわけにはゆかない。」


 仮に、ある人が「わたしはメシア、すなわち救世主である!」と言って現代の日本に現れたとします。その場合、その人は「ありがとう!さぁ、世界を救ってください!」という民衆の熱狂をもって迎えられることは、ほとんど期待できそうにありません。


 おそらくは、「うさんくさい」「この嘘つきが!」「クズ野郎!」「ゲス野郎!」「マザーファッカー!」あたりが相場であるかと思われますが、反応してもらえればまだよい方で、たいていは徹底的な無反応で迎えられることが予想されます。


 哲学的思考の場合にも、事態は同じであるように思われます。哲学は、建前上は何も前提なしに考えるということになっていますが、ボキャブラリーや思考法、書物のスタイルにいたるまで、実際には時代と地域の色彩を拭い去ることはできそうにありません。


 たとえば、現代のフランス思想研究者と分析哲学者とがたまたま席を同じくすることがあったとしたら、互いに冷ややかに応対するか、それこそ「このマザーファッカーが!」と叫んで乱闘するしかないのではなかろうか。



思考の(偽)メシア性 カント フッサール 功利主義



 乱闘うんぬんは、筆者の余計な思い過ごしである可能性も否定できませんが、あらゆる哲学は密かな独断性をはらんでいるという点については、どれだけ注意してもしすぎることはないかもしれません。


 かくいう筆者の場合はどうかというと、たとえば筆者は去年のこの時期には、『倫理の根源へ』というシリーズに取り組んでいました。


 これは、現代哲学の成果を踏まえつつ功利主義とカント倫理学を乗り越えるという大変に画期的なもので、とくに道徳法則をフッサール現象学によって大胆に読みかえてゆく「倫理的なものの受動的総合」というアイデアは、自分でも鳥肌が立ちまくるというくらいの自信作でしたが、結果は哲学界隈ではほぼ無反響という悲惨なものでした。

 
 このまま荒野で独断的に自作の哲学を叫びつづけながるちょっとアレな人になるのではないかという不安は尽きませんが、もはや捨てるものも何もないので、このまま思考の(偽)メシア性を追い求めつづけてみることにします。





 
 

[『倫理の根源へ』ですが、もし時間がありあまりすぎて買い物のレシートくらいしか読むものがないということでしたら、目を通していただければ幸いです……!]