イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

Appendix:コギトの無力

 
 思考の(偽)メシア性と独断性という問題に行き当たった時には、次のような疑問が浮かんでくることは避けられないように思われます。


 「哲学的思考は、その本質からいって、独断的であるほかないのだろうか。」


 遺憾ながらそうであるほかないというのが、筆者の考えです。あるいは、ひとがもし本当に絶対に確実な知以外は受け入れたくないと望むならば、ひとは「意識が存在する」という根源的な事実から一歩も外に出ることができないのではないか。


 問題になっているのは、次のようなダブルバインドであるように思われます。


 1.「意識は存在する」は絶対に確実な知であるが、わたしはそこから一歩も外に出ることができない。(コギトの無力)
 2.それ以上の知に辿りつこうとするならば、その時にはわたしは何らかの仕方で独断的であるほかない。(独断性としての「知ハ力ナリ」)


 デカルト、カント、フッサールはともに、コギトから知へと至る道筋があると信じ、その道を辿ろうとしたけれど、おそらくは彼らのアプローチをもってしても乗り越えることのできない、コギトの無力というモメントが存在するのではないか。



思考の(偽)メシア性 コギト デカルト カント フッサール


 
 コギトの無力か知の独断性かという、ダブルバインド。これが筆者の認識論の問いに対する見立てですが、この「コギトの無力」は哲学的にみてきわめて重要であるように思われるので、また機会を改めて論じることにしたいと思います。


 それにしても、こんな無名の人間の書いた記事を読んでくださる方がいるということには、感謝してもしきれません。筆者は大学を辞めてしまいましたが、それでもこうして哲学について書いたものを読んでいただけるということは、本当にありがたい限りです。


 この「コギトの無力」も含めて、生きているかぎり哲学を続けていってみようと思います。現代哲学の最前線を自分なりに追求してみますので、もしよろしければ、お時間のある時にでもご覧いただければ幸いです!