さて、ここから先は、哲学的思考のリミットとでも呼ぶべき領域に足を踏み入れてゆくことにします。
「信仰の言葉は、ロゴスは受肉して一人の人間となったと語っている。」
第二の位格である子としてのロゴスは、世界の創造に関わっていました。世界はロゴスによって創造され、同時にロゴスは世界を創造しつつ、世界から超越しています(内在的超越)。
信仰の言葉によると、このロゴスがある時一人の人間となって、母の胎に宿ったというのです。『ヨハネによる福音書』の一節は、次のように語っています。
「信仰の言葉は、ロゴスは受肉して一人の人間となったと語っている。」
第二の位格である子としてのロゴスは、世界の創造に関わっていました。世界はロゴスによって創造され、同時にロゴスは世界を創造しつつ、世界から超越しています(内在的超越)。
信仰の言葉によると、このロゴスがある時一人の人間となって、母の胎に宿ったというのです。『ヨハネによる福音書』の一節は、次のように語っています。
「ロゴスは肉となって、私たちのあいだに宿られた。」
この人間とは、象徴的な意味における人間ではなく、文字通り、歴史上のある一時点における一人の人間のことを言います。今から二千年前のイスラエルに現れたナザレのイエスこそがその人であると、『ヨハネによる福音書』は語っています。
かくして、メシアを哲学・神学的に語るとするならば、「メシア、それはロゴスの受肉である」となるでしょう。神の言葉それ自身が人間となって降りてくる、その人こそがイエス・キリストにほかならない、というわけです。
この人間とは、象徴的な意味における人間ではなく、文字通り、歴史上のある一時点における一人の人間のことを言います。今から二千年前のイスラエルに現れたナザレのイエスこそがその人であると、『ヨハネによる福音書』は語っています。
かくして、メシアを哲学・神学的に語るとするならば、「メシア、それはロゴスの受肉である」となるでしょう。神の言葉それ自身が人間となって降りてくる、その人こそがイエス・キリストにほかならない、というわけです。
正直に言って、このロゴスの受肉までゆくと、話が飛躍しすぎていて、もう何が何だかわからないというのが哲学者としての本音です。
ロゴスによる世界の創造というならば、まだわかる。少なくとも、哲学者の中でこれに近いことを主張した人は、それこそ古代から現代にいたるまで数知れません。
しかし、ロゴスが受肉するとなると、もはや人間の思考の限界を踏み越えている気もします。しかし、事態を整理するために、一応、次のような区別をつけておくことにします。
1.ロゴスとしてのキリスト。
2.受肉したイエス・キリスト。
1は絶対者の第二の位格であるとともに、形而上学的原理そのものでもあるような「肉を持たないキリスト」です。それに対して、2は、そのロゴスとしてのキリストが手で触れ、耳でその言葉を聴きうる存在となってこの世に降りてきた「肉なるキリスト」であるといえます。