イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「不合理ユエニ我信ズ」

 
 さて、信仰の言葉は、次のように語っています。

 「受肉したロゴスであるキリストは、人間の罪のために十字架上で死に、墓に葬られ、三日目に復活した。」


 もはや、ここまで来ると何でもありなのではないかという感は否めませんが、あらゆる思考を覆す絶対的転覆のロジックからすれば、論理的にありえないことではなさそうです。


 「神は死んだ。」しかし、それは人間が神を殺したからではない。確かに、彼を殺したのは人間ではあるのだが、彼は自ら、自分を死に追いやろうとする人間たちのためにこそ、死を選んだのではなかったか。


 「私たちの聞いたことを、いったい誰が信じるだろうか。」『イザヤ書』のこの言葉が示すとおり、神の子であるキリストの死、あるいはイエスの十字架は、これ以上に法-外な話があろうかというくらいに法-外な話です。


 けれども、もしもこの知らせが正しいのだとしたら。


 その時、悩み苦しむすべての人間は、見捨てられてはいないことになる。それは、もしもこの知らせが本当のことだとすれば、神は、自らが痛んで死んだほどにまで、私たちの一人一人を愛していることになるからです。



ロゴス キリスト 十字架 復活 イザヤ書 パスカル アウグスティヌス キルケゴール テルトゥリアヌス



 すべての「ありえない」が絶対的転覆のロジックだけで引っくり返るのだというのは、あまりにもも無理のある話にも思えます。何よりも、そんな話がまかり通るというならば、哲学的思考どころか、論理的思考すらも意味がなくなってしまいかねないのではないか。


 けれども、思考そのものを破壊しながら自らの愛の深さを啓示することが、神の意志であったとしたらどうだろうか。そして、哲学的思考が音を立てて崩壊する瞬間を受け入れることが、哲学をすることのテロスであったとしたら……。


 「不合理ユエニ我信ズ」。テルトゥリアヌスという人が文字通りこの言葉を言ったかどうかは別にするにしても、アウグスティヌスパスカルキルケゴールなど、この路線に賛成した哲学者は決していないわけではありません。かくいう筆者もその一人であることを、最後に付け加えておくことにします。