イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

最後の棘

 
 イデア性と受肉性の関係についての考察からは、次のような実践的帰結が導かれるように思われます。


 「生の根本問題は、死ぬまでに何をなすべきかということのうちにある。」


 人間は、人生のうちでさまざまに夢想します。とくに、哲学徒ともなると、それこそイデーの世界を漂っているだけで、いつの間にか人生が終わりを迎えていたということにもなってしまいかねません。


 けれども、肉体の死は遅かれ早かれ、いつか必ずやって来る。わたしを追いつづけるその棘がわたしの肉をついに捉えるその日までに、一体、わたしは何を選択するべきなのだろうか。


 気晴らしと享楽か。逃げながらの静観か。諦めと妥協か。死のことを考えたときに、いつかわたしの肉が朽ちるとしても意味があると追うことのできる行為を、今までのわたしはどれほど行ってきただろうか。


 この世は広いけれど、わたしの命は短い。受肉性とモメントについて考えるとき、ひとがそのような思いに捉えわれずにいることは難しいように思われます。



イデア 受肉 三位一体 絶対的転覆 気晴らし 享楽




 「一粒の麦は地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば豊かに身を結ぶ。」


 実を結ぶ命とは、一体どのような命なのだろう。


 ある人びとは、すべては炭素の戯れにすぎないと言っている。何もかもが、無から出て無へと帰ってゆくだけなのだと。


 そのことが正しいのかどうか、この世に断言できる人はいない。はっきりしているのはただ、何かを信じる人も、何も信じない人も、いずれその肉体は滅びるということだけであるようにも思えるのは確かだ。


 けれども、ただ生き延びて、いつか死ぬだけの命なら、わたしは一体なぜ生まれてきたのか。わたしの命が、死を超えて実を結ぶような生が、どこかにあるのだとしたら。

 
 三位一体と絶対的転覆については一通り考察を終えたので、これからもう少しこの問いかけを追ってみることにします。もしよろしければ、お時間のあるときにでもお付き合いいただければ幸いです。