イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

死とニヒリズム

 
 重苦しい話題ではありますが、まずは次の点から考察をはじめてみることにします。
 

 「死は、明示的ではない仕方でではあるが、人間の行うあらゆる営みに暗い影を投げかけつづけているのではないか。」
 

 ふだんから死のことを語る人というのはそれほど多くありませんが、本当は、死の存在はあらゆる人間の価値観の奥深くにまで浸透しているといえるのではないか。
 

 どうせ、死ねばすべてが終わるのだ。そのような確信は、意識的ではないにせよ、きわめて多くの人を支配しており、そのことが、「すべての物事には意味がない」というニヒリズムを人間の世界のうちにひそかに入りこませているのではないか。
 

 確かに、私たちの世界は、表向きには「すべての物事には一定の意味がある」という認識のもとに動いているようにみえます。けれども、筆者には、「そんなものは茶番だ」と思っている人の数は、実はふつうに思われているよりもずっと多いのではないかと思えます。
 
 
 
死 ニヒリスト キルケゴール 絶望
 
 

 この点からいうと、ニヒリズムというのは、ほとんど人間の世界を全面的に覆いつくしているのではないかとさえ思えてきます。
 

 ニヒリストのうちには、「すべての物事には意味がないと知っているのはわずかな割合にすぎず、後の大半は、物事の価値を無垢に信じている素朴な人たちだ」と考える人もいます。けれども、筆者には、この見方は人間の心の現実を正確には捉えていないのではないかと思えます。
 

 「どうせ、誰もがいつかは死ぬのだ。しかし、世の中では物事には意味があるということになっているのだから、そういうことにしておこう。」
 

 キルケゴールは、人間の絶望は、絶望しないというしかたで絶望しているという形を取りうると言っていますが、筆者には、こちらの見方のほうが上のニヒリストの考え方よりも現実に即しているのではないかと思います。もしそうだとすれば、人間は一見そう思われているよりも、はるかに深いしかたで死に取り憑かれている存在であると言うことができるのかもしれません。