ニヒリズムについては、次の二つの捉え方があるといえるのではないか。
すでに論じたように、筆者は、ニヒリズムという概念の射程を捉えつくすためには、1のみならず2の側面にまで踏みこんでみたほうがよいのではないかと考えています。
スラヴォイ・ジジェクが指摘していることですが、人間の営みは、たとえすべての人が「こんなものは茶番だ」と心の内で思っていたとしても、それにも関わらずそのまま続いてゆくということがありうる。それも、まるですべての人々が自分たちの世界の有意味性を確信しているかのような外観を、しっかりと保ちながら……。
本当は、理念は空しいものにすぎないのではないか。それに対して、目に見える利得は、けっして人を裏切ることがないようにみえる。
こうしてニヒリストは、すべての物事の運行を冷ややかに見つめながら、自分の立ち位置の確保を最優先するというリアリスティックな戦略を遂行することになります。こうした人生を実際に生きた歴史上の人物としては、ジョゼフ・フーシェという名前を忘れることはできません。
何も信じていない人間は、現実の世界においては、ある意味では最も強いといえます。かれは目に見える力と利得の流れだけを見ている以上、これらのものに対して誰よりも鋭敏な感覚を研ぎ澄ますことになるからです。
現代は、物質上のめざましい繁栄とは対照的に、さまざまな理念の価値、イデア的なものの価値が、かつてないほどに弱まっている時代です。このような時代においては、一人のニヒリストとして人生を生き延びることは、きわめてクレバーな選択であるようにも見える。
哲学者にとって、ニヒリストとは自分とは異なった方向へと進んでゆく主体のポジションとして、多くのことを考えずにはいられない存在であるといえます(ソフィストとニヒリストの類縁性)。プラトニズムとマキャヴェリズムという古い対立は、人間の世界がつづくかぎりつねに問われつづける問題であるといえるかもしれません。