イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

現実の唯一性

 
 物質的な面においてはともかく、精神的な面からいえば現代がある種の「乏しい時代」であることは間違いなさそうに思われますが、そのことに不平ばかり並べているわけにはゆかないのは確かです。
 

 「唯一的な主体であるわたしは、みずからに固有な存在可能性を選びとるように求められている。」
 

 現代を覆いつくすニヒリズムシニシズムの勢いはすさまじいものがありますが(「見えない絶望」)、他の時代の苦境に比べてみるならば、状況が悪いとは決していえないのかもしれません。いずれにせよ、どんな時代に生まれようとも、人間はみずからの進む道を選択しないわけにはゆかない。
 

 わたしが選択した道が、今度はわたし自身を規定します。選択のプロセスは現実なので、ヴァーチャル・リアリティが全盛の時代とはいえ、この現実性からだけは、どうやら逃げることが不可能なようです。
 

 哲学的にみても、現実のこの唯一性がもたらす帰結はきわめて重いと言えるのではないか。可能世界について夢想することも人間には許されていますが、私たちの生がただ一つであることは、否定することのできない事実であるといえそうです。
 
 
 
ニヒリズム シニシズム ヴァーチャル・リアリティ フィクション
 
 
 
 現実のこの唯一性は、ある意味では人間に対して非情であるといえる。というのも、この唯一性は、フィクションの海のうちに溺れるようにして生きるという選択肢もまた、ひとつの現実であると人間に告げるからです。
 

 「本当はこうしたかった」という人間の声に、この唯一性は耳を傾けてくれません。
 

 この声に対して、唯一性は静かに「今の人生があなたの人生だ」と告げます。その声は決して大きなものではありませんが、それにも関わらずその口調は、何を言っても動かしえないほどに断固としたものです。
 

 現実はわたしがどのような人生を選びとるのかを、ただ静かに見守っています。唯一的な主体であるわたしは、この見えないまなざしのうちで、人生をただ一度かぎり最後まで生きぬくことを求められていると言えるのかもしれません。