イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

ニヒリズムは派生的である

 
 「望むにせよ望まないにせよ、わたしには、あなたとの関係を求めるのをやめることができない。」
 

 関係の具体的な状況はさまざまであるとはいえ、これが人間の生を根底から条件づける渇望であるように思われます。
 

 わたしは確かに、あなたと呼べるような他者、愛においてであれ友情においてであれ、絶対的に隔たりながらも呼びかけつづけずにはいられないような他者を、まるで求めていないかのようにして生きることもできます(ニヒリズムの実存論的構造)。
 

 けれども、これはおそらく渇望を部分的かつ無意識的に抑えこむことからくる、派生態にすぎないのではないか。
 

 ニヒリストは、他者を求めないことと相関して、死の甘美さに取りつかれます。想像不可能なものである死はかれにとって、いわば絶対的な他者にあたる役割を果たすからです。
 

 このあたりの事情については、ドストエフスキーが生み出したキリーロフという人物が、事態をさらに掘り下げるためのヒントを握っているように思われます。このキリーロフなる人物には、ドストエフスキーの注意深い読者であったニーチェも少なからぬ関心を寄せていたようですが……。
 
 
 
 
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 キリーロフのように、ニヒリズムをひとつの思想にまで高めつつ、それを実践して生きている人間は、もちろん実際のこの世にはほとんどいません。けれども、度合いを薄めつつもニヒリズムに取りつかれている人はというならば、私たちのすべてが程度の差はあるにせよ多かれ少なかれニヒリスト的なところを持っていると言えるのではないか。
 

 すでに一度論じたように、現代は、マイルドなニヒリズムが蔓延している時代です。おそらく、人間がこれほどまでに生身の他者との関係を欲しなくなった時代は、これまでになかったのではないか。
 

 それにしても、哲学者がニヒリズムを問題にしはじめてからもうずいぶん長くなるというのに、この問題はなお今日においてもアクチュアルなものでありつづけています。ニヒリズムとの対話は、人間が生きつづけるかぎりどこまでも続いてゆくと覚悟しておいたほうがよいのかもしれません。