イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

フィクションの危険性

 
 1.唯一的な主体としてのわたしへの、わたし自身の存在の贈与あるいは外傷。(現実的なモメント)
 2.コギト、すなわち思考する主体としてのわたしの思考。(想像的なモメント)
 

 2は、1にもとづくことにおいてのみ可能になります。そして、2は1のモメントに追いつくことが決してできません。逆を言えば、2は1に対してつねにすでに遅れているという宿命を背負っているといえる(コギトをめぐる隔時性)。
 

 すでに論じたように、ここでは思考が抱える事後性という側面がきわめて重要であるように思われます。事後的な想像は、現実的なものである外傷を現実的にはどうすることもできません。
 

 「もしもわたしが男ではなく、女に生まれていたら……。」このように想像したとしても(あるいはその逆を想像したとしても)、わたしには、わたしがすでに男あるいは女として存在しているという事実をどうすることもできません。
 

 「もしもわたしが、そもそもこの世に存在していなかったとしたら……。」この場合にも、同じことが当てはまります。わたしが他でもないこの人間として生きているという事実(外傷)を、思考(事後性)はどうすることもできません。
 
 
 
コギト フィクション 隔時性 事後性 外傷
 
 

 以上のことは当たり前のことのようにも思えますが、実際には、このことを否認することからくる弊害も存在します。というのも、人間には、フィクションの過剰摂取によって本来的な実存を見失うという可能性が存在するからです。
 

 フィクションは、適量のコミットにとどめるならば、自分自身の生を省みるためのよい契機になりうる。しかし、もしも過剰摂取に陥ってしまったとしたら、その時には自分自身の生を忘れて、虚構のうちでわれを見失うということになりかねないのではないか……。
 

 現代社会にあふれる大量のフィクションが、人間が自分自身であるという事実から逃避させ、自己喪失に陥れることがありうるとしたら恐ろしい話です。外傷の否認という衝動は無意識的であるがゆえにきわめて強大であることを考えると、この可能性は過小評価しないほうがよいように思われます。