無意味からの出口としてのあなたの存在を知るとき、わたしは、それまで気づくことのなかった事実にあらためて気づくことになります。
「世界には、わたしの他にも苦しんでいる人々が無数にいる。」
おそらく、人間は、自分自身が何らかの形で苦しんだことがなければ、他者の苦しみにも開かれることはないのではないでしょうか。そして、これはもう、ある程度は仕方のないことであると言わざるをえないのではないか。
裕福な子供が、遠い異国の子供達が画面の中で飢えて死んでゆくのを眺めながらあくびをする。健康な人間が病人を前にして、その人に言ってはいけないはずのことを思わず口にしてしまう。
しかし、そのような時に、その裕福さや健康さをはたして無条件に責めることができるだろうか。身を切るような痛みを知ることがなければ、他者の痛みとはいつまでも出会いそこねつづけざるをえないのだとしたら……。
成人したわたしは、この世には痛みというものがあることを知った。自分にはまだ知らない痛みが無数にあることは否定すべくもないけれど、今のわたしには、幼子だったころとは世界が違う風に見えている。
この世には、誰も自らすすんで傷つきたいと願う人はいません。けれども、もし人が傷つくことがなければ、その人は他者が傷ついているのを見ても、何も感じることがないかもしれません。
痛みは人間を他者たちに向かって開くということ。それも、わたしをあなたに向かって開くだけではなく、わたしでもあなたでもない、まだ見知らぬ誰かに向かっても開くということ。
ここには、哲学者が目を向けずにはいられないような驚異があります。自己への閉塞という運命に取りつかれている現代という時代において、傷と痛みの体験は、人間にその運命とは別の方向を示しているということができるかもしれません。