「哲学者の生とは、ある面から見れば、存在という語への態度の変化のプロセスであるといえるのではないか。」
人生のうちで死と別れの経験をくり返すうちに、哲学者の心の中では、ある問いかけが重ねられてゆくことになります。
かつて「ある」と思っていたものが、今は「ない」。そうであるならば、今「ある」と思っているものも、当然いつかはもはや「ない」ものに変わってしまうことだろう。
そうであるならば、この「ある」という語は何かひどく空しいものであるということになりはしないだろうか。本当の「ある」は、あったはずなのに「あらぬ」に変わってしまうようなものではなく、いつまでも「ある」でありつづけなければならないのではないか……。
パルメニデス以来、哲学はこの存在するという語をめぐる問いかけを決してやめることがありませんでした。近現代に入った後にも、デカルトからハイデガーに至るまで、哲学が生まれ変わって新たな生命を獲得する際には、つねにこの「ある」の問い直しが行われつづけてきたことは言うまでもありません。
私たち人間は、「ある」という語が何を意味するのか、はたして知っているといえるのだろうか。ことによると、一度も「ある」の意味を知ることがないままに、人間は生まれ、死んでゆくのではないか……。
存在をめぐるこの問いは、たとえ自然科学がどれほど発展するとしても、いつまでも哲学に固有の問いとしてとどまりつづけることでしょう。この問いを自然科学との親しい対話のうちで追求したベルグソンのような哲学者がいるとしても、このことには変わりがないのではないかと思います。
当たり前に見えることほど深いものはないというのは、哲学を学べば学ぶほどに痛感されることですが、こと存在という語に関しては、このことがよく当てはまるといえるのではないか。存在するという語を前にして、そこを通り過ぎずに立ち止まるようになった人は、すでに哲学の門をくぐって道を歩みはじめているといえるのかもしれません。