イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

幸福であることの残酷さ

 
 本題に戻ります。
 

 「たとえ、見知らぬ他者の苦しみがわたしには全く関係のないものであっても、わたしはその他者にできることをした方がよいのではないか。」
 

 すでに論じたように、わたし(私たち)が自分でも知らないうちに他者を傷つけている可能性はあるけれども、たとえその可能性がないとしても、わたしはその苦しみにコミットするよう求められているとは言えないだろうか。
 

 そのことを考えるために、ここで次のような言明を検討してみることにします。
 

 コナトゥスの幸福表明:
  「わたしは、幸福である。」
 

 自分自身の幸福を追求する権利はすべての人に認められるべきであるというのは、ほとんどの人の同意するところではないかと思われます。しかし、この言明に一つの規定を付け加えるとすると、どうだろうか。
 

 コナトゥスの幸福表明・修正版:
  「どこかで見知らぬ他者は苦しんでいるだろうと思われるが、わたしは幸福である。」
 

 こう書いてみると、この修正版をそのまま肯定することには、なんらかの抵抗を感じずにはいられないような気がしてきます。ということは、この言明そのものに、もともと何らかの穴があったということなのだろうか……。
 
 
 
コナトゥス 見知らぬ他者 幸福 罪 宮沢賢治
 
 

 言うまでもなく、「どこかで見知らぬ他者が苦しんでいる」という命題は人間が生まれてきて以来ずっと真でありつづけてきたので、本当は、「わたしは幸福である」と言うときにはできるだけ、心の片隅で見知らぬ他者のことを想像しておいた方がよいのかもしれません。
 

 もちろん、「すべての幸福表明は罪である」とまで言ってしまうと、これはこれで行き過ぎであるのは明らかです。けれども、自分の幸福のうちに閉じこもることにはある種の残酷さがはらまれていることもまた、おそらくは忘れるべきではないのではないだろうか。
 

 「全人類が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。」宮沢賢治の言葉です。筆者がこの言葉をはじめて目にした時には、さすがに少し極端なのではないかと感じていましたが、最近は、この言葉はもっと真剣に受け止めた方がよいのではないかという気がし始めています。