この辺りで、倫理をめぐる原理的なアポリアに目を向けておいた方がよいかもしれません。
「倫理は、不可能にも見える贈与を行うことを人間に求める。」
これまで、見知らぬ他者の苦しみに対して何ができるのかという方向で探求を進めてきましたが、この方向が底しれない深淵に通じていることを予測するのは、それほど難しいことではありません。
というのも、この世界には、ほとんど無限とも思えるほどの苦しみがつねに存在しているからです。
仮に誰かに手を差し伸べることができたとしても、そのことによって別の誰かの苦しみに目をつぶることになるのではないか。それぞれに固有の苦しみを抱える人々のあいだに、優先順位をつけることなどできるのだろうか……。
エマニュエル・レヴィナスやジャック・デリダといった哲学者たちは、このアポリアのことをきわめて深刻な問題であると考えていました。かなり観念的な問題であるため、実践上は自分にできる範囲のことをするしかないように見えるのも確かですが、だからと言って、このアポリアのことを完全に無視するわけにもゆかないのではないか。
「わたしが行おうとしている善(あるいは、そう見える行為)は、ただの偽善にすぎないのだとしたら。」
現代の人間は、少なくとも潜在的には、つねにこのような疑念に取り憑かれているのではないか。海の向こうで次々と人が殺されてゆくのをただ見ているだけのわたしに、一体何ができるというのだろう。
グローバルに考え、ローカルに行動せよと、人は言う。けれども、自分のするべきことをなしていさえすれば、自分は正しく生きていると安心してよいのだろうか。自らの正しさを誇る人のかたわらで、誰かが傷つき、死んでゆく……。
こうした問いかけに正解がないことは明らかであるように思われますが、哲学者としては、まずはこのアポリアの存在そのものを認めることが必要なのではないだろうか。このアポリアから導かれる帰結について、これからもう少し詳しく考えてみることにします。