イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

サバイバーズギルトについて

 
 前回に論じた、見知らぬ他者の苦しみをめぐる原理的なアポリアは、ある根源的な感情をめぐる問題につながっているのではないか。
 

 「私たちは、罪悪感なしに生きてゆくことが可能だろうか。」
 

 ここでは、サバイバーズギルトという概念を導入したいと思います。これはもともと、大きな事件や事故に巻き込まれた人たちのための用語ですが(Survivor’s guilt)、ここではその意味を拡大して、普遍的な感情としてのサバイバーズギルトについて論じてみることにしたい。
 

 ここでは、サバイバーズギルトという言葉で、自分が「ふつうの平和な」世界を生きてしまっていることに対する罪悪感を指すことにします。
 

 たとえば、私たちが日常で感じる「楽しい、おいしい、便利」といった感覚は、そういった感覚を与えてくれる商品やサービスの背後にある、過酷な労働や自然資源の搾取などといった暴力につながっている可能性があります。
 

 すでに論じたように、暴力はその本質からいって日常の世界から隠される傾向を持つので、ふつうはこの暴力が可視化されることはまずありません。けれども、本当は少からずの人が、「自分たちの生活は誰かの犠牲の上に成り立っているのではないか」とうっすらと感じているのではないか。
 
 
 
サバイバーズギルト 暴力 フィクション 罪悪感
 
 
 
 ここでは商品やサービスの例を挙げましたが、言うまでもなく、この議論はそういった領域に限定されるものではありません。その意味では、このサバイバーズギルトをめぐる議論が適用される領域は、ほとんど世界の全体に広がっていると言えそうです。
 

 人間世界というシステムは、おそらくその本質からして暴力の講師や苦しみの無視といった要素をつねに幾分かは含みこんでいる。このシステムの中で「ふつうに快適に」生きているということは、本当はとても残酷なことなのではないか……。
 

 この世には、日常のさりげなさや穏やかさを歌いあげる音楽やフィクションであふれているけれども、日常がはらんでいる残酷さの方は、それに比べて取り上げられることがかなり少ないのではないだろうか。自分自身が残酷であることを認めるのは気持ちのよいことではないので、尻込みしてしまう話題であるのは確かです。