イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

いなくなってしまった人たち

 
 サバイバーズギルト、すなわち、生きつづけていることへの罪悪感に関連して取り上げておきたいトピックがあります。
 

 「私たちは、いなくなってしまった人たちのことを忘れながら生きている。」
 

 学校や職場、その他さまざまな社会空間のうちで、そのメンバーの一人がいなくなってしまうという出来事は、これまでに多くの人が経験したことがあるのではないかと思われます。
 

 「あの人は最近、どうしたのだろう。すっかりここに来なくなってしまったけれど……。」そうした時に、そのいなくなってしまった人のことは、気にはなるけれども、そのままにしてしまうということが多いのではないだろうか。
 

 社会空間はその本質からいって、その場にいる人たちのためのものです。そのため、「私たち」から離れてしまった「彼あるいは彼女」のことは、同じメンバーというよりは、単なる話題の中の人として扱われてしまいがちです。
 

 たとえ誰かがいなくなったとしても、その社会空間はそれまでと同じように「平和な日常」を続けてゆく。生き残っている人たちは忙しいので、いなくなってしまった人たちのことを気にかけている時間がない……。
 
 
 
サバイバーズギルト 哲学 倫理 学校 職場 現前
 
 
 
 哲学の用語でいうと、私たち人間は「現前(その場にいること、現れていること)」の光に目を奪われるあまり、現前しない人のことは忘れてしまいがちです。しかし、本当は現れていることのみならず、現れていないことの方にも目を向ける必要があるのではないだろうか。
 

 不在であるからといって、存在しないとは限らない。人間が倫理と向き合うにあっては、現前と存在の暗黙のうちの同一視から身を引き離して、不在のものの存在を考えてゆくことが求められているのだとしたら。
 

 現前、不在、存在といった語がかなり抽象的なものであることは確かですが、こうした概念について考えておくことは、おそらくは実践上の問題にもつながっています。倫理という問題圏は、存在するということの意味を考えなおすことを私たちに要求しているといえるのかもしれません。