イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

人間における非人間的なもの

 
 炎上の無根拠性テーゼ
  :たとえ何らかの倫理的過失を犯した人間がいるとしても、その人間を罪人として断罪し、個人または集団で非難の集中砲火を浴びせることには根拠がない。
 

 すでに見たように、この命題を「ほぼア・プリオリに真」であるとみなせるとすれば(論証については前回の記事を参照)、そこからは哲学的にみて興味深い教訓を引き出せるかもしれません。
 
 
 ア・プリオリに真であるとは、必然的かつ普遍的に真であるということです。ということは、この命題は炎上現象にかかわる人間が誰でありどんな人であろうと、それに関わりなく妥当するということになります。
 

 つまり、炎上による糾弾の対象となる人間が何をした(書いた)のか、あるいは、炎上現象を引き起こした匿名(あるいは準–匿名)の人々がどんな人たちであったのかを吟味することがなくとも、その現象が炎上であるとの判断を下せさえすれば、その炎上には根拠がないということになるわけです。
 

 もちろん、ある現象を炎上とみなすことができるかどうかは必ずしも自明ではなく、また、暴力的な炎上と批判の集中を区別する必要もあるでしょう(後者は言論の健全性を保つためにも必要と思われる)。それでも、「炎上は、それが炎上であるかぎりは(ほぼ)ア・プリオリに根拠がない」という命題にはある一定の有用性があるといえるのではないか。
 
 
 
炎上 ア・プリオリに真 必然的 普遍的 哲学 道徳 非人間的
 
 

 炎上という現象が、すでに見たような剥奪と暴力のモメントを含むものであるとするならば、炎上にはいついかなる時にも根拠がないということ。哲学の観点からは、やはりこの「いついかなる時にも」(必然性と普遍性)にあらためて注目しておきたいところです。
 

 「道徳は時代によってあり方が異なる」というのは広く流布した考え方であるといえますが、倫理にはそうした相対性をあくまでも認めない、ある種の「融通のきかなさ」がある。倫理からこの融通のきかなさを取り去ってしまったら、その時、倫理はもはや倫理ではなくなってしまうのではないか……。
 

 人間の世界は基本的には相対的なものによって構成されているので、倫理の領域はこの点から見るとかなり異質です。倫理とは、人間的なものにおいて非人間的な絶対性とでも呼ぶべきものが存在することを示すものであるといえるのかもしれません。