ここで一つ、次のような問いについて考えておくことにします。
「倫理的に欠点のある人間が、倫理について語ってもいいのだろうか。」
直観的には、何か欠点があるならば、まずは自分自身のことを正すべきなのではないかとも思えますが、この問いに対しては、「よい、というより、そうするより他に仕方がないのではないか」というのが、筆者の今のところの立場です。
すでに論じたように、倫理的欠陥のない完璧な人間なるものは存在しません。さらに突きつめてみるならば、人間は、すべての人がみな一癖も二癖もある面倒な部分を抱え持っているというのが事の真相なのではないでしょうか。
すべての人に欠点がある。けれども、だからと言って、誰も倫理について一切語らなくなるとしたら、遅かれ早かれ人間の世界はカタストロフを迎えることを避けられないように思われます。
カントは、道徳性の向上には無限の時間を必要とするという意味のことを言っていますが、筆者もこの点には同意します。欠点だらけでも互いに認め合って少しずつでいいから成長してゆくというきわめて地味な学びの過程が、人間には必要なのではないか……。
なんだか小学校の道徳の授業のような話になってきたような気もしますが、こと倫理に関しては、プライドを捨てて自分自身の未熟さを認めることが何よりも重要であるような気もします。
私たちは大人になるにつれて、互いにうまく付き合ったり、トラブルを回避したりすることを覚えて、しだいに誰かから倫理的欠陥を指摘されることが少なくなってゆきます。それが数年、数十年と重なってゆくと、だんだん無意識のうちに自分でも欠点そのものまでもなくなったような気がしてくるものなのではないか。
ところが、大人とはたんに、うまく切り抜けることを学んだ子供である場合が少なくありません。その点からいうと、成熟しつくした大人などというものはおらず、誰もが多かれ少なかれ子供であるというくらいに考えておいた方がよいのではないだろうか。
哲学の立場からいうと、ここには大人であることと子供であることの意味をめぐる重要な論点があるのではないかと思われます。筆者自身が筋金入りのアダルトチルドレンでもあるので、この点については今のうちにしっかりと検討を加えておいた方がよいかもしれません。