前回の記事で人格の完成という語を不要に用いてしまったので、この語について検討を加えておくことにします。
哲学の目的に関する二択:
1. 哲学者は、人格の完成をめざす。
2. 哲学者は、人格の完成をめざさない。
このように二択で迫られるとなると、やはり1の方を選択しないわけにはゆかないのではないかという気がしてきます。実際の哲学者がみな人格者であるかというと、それはかなり疑わしいように思われますが……。
よく考えてみると、ふつう哲学者の名のもとに呼ばれる人たちの探求の成果は、この国の高等教育においては「倫理」という科目の中で学ばれています。ということは、「哲学とは何ですか?」という問いに対しては、「とりあえず倫理のことだと考えてください」と答えてもよいということになるのではないか。
ただ、哲学を倫理と呼びかえてしまうと、何か哲学がかぎりなく味気ないものと化してしまう気もします。哲学にはもっとセクシーというか、ミステリアスというか、そういう要素も含まれていることは確かであるように思われます。
けれども、最近になって筆者がますます感じさせられているのは、哲学というのは学べば学ぶほど、最初は味気なく見えていた概念が面白くてたまらなくなってくるということです。
たとえば、18世紀の哲学者であるカントの哲学にはほとんどセクシーさのかけらもありませんが、哲学のお手本中のお手本ともいうべきものであることはやはり否定しがたい。そしておそらく、この人の哲学に対しては、この後も年を経れば経るほどに尊敬の念が高まってゆくであろうと思われる……。
話を本題に戻します。筆者は最近、哲学における倫理の、そしてまた人格の完成というイデーを追い求めることの重要性を感じさせられる機会がますます多くなっています。しかしこのことは同時に、自分の哲学の探求がますます味気なく、ますます金八先生方面に向かって流れてゆくことを意味するのではないか……。
ミシェル・フーコーほどの鬼気迫るセクシーさはなくとも、少なくとも金八先生よりはもう少し潤いがあってもよいかと思われるので、この点はきわめて悩ましいところです。なお、筆者には金八先生の人格の高潔さを否定する意図は全くないことを、最後に付け加えておくことにします。