わたしは人間として、どのように生きるべきか。今回はこの問いのうちに含まれる、「人間として」という表現について考えてみることにします。
「哲学は、あるべき人間の姿にたどりつくことを目指す。」
望もうと望むまいと、私たちは人間として生まれ、人間として死んでゆきます。哲学とは、人間として生きるというこの務めの引き受けとしての、思考の営みなのではないだろうか。
それでは、あるべき人間の姿とは、一体どのようなものだろうか。ここでは、次の二つの可能性が考えられます。
1. あるべき人間の姿は、それぞれの人ごとに異なる。
2. あるべき人間の姿は、究極的には一つに収斂する。
1の立場を選択するとなると、すでに見たような、相対性をめぐるアポリアと類似の難点に突き当たらざるをえないのではないか(この点については、「相対性をめぐるアポリア」を参照)。したがって、この二択についてはここでは2を選択しつつ、もう少し先に進んでみることにします。
最初に容易に予想されるのは、あるべき人間の姿にたどりつくのはそう簡単にはゆかないだろうということです。
むしろ、もし仮にあるべき人間の姿を確定することができたとするならば、その時点で哲学の営みそれ自体もある意味では終わっており、あとはその人間をめざして日々修行あるのみということになりそうです(修行という言葉がふさわしいかどうかは要検討と思われますが)。あるべき人間の姿とは、哲学がめざすべき最終地点にいたってはじめて明らかになるものであると考えておいた方がよいのかもしれません。
ところで、終わりがまだ見えていない今の時点から終わりをめざすというのは、ある意味では哲学が抱える狂気であるともいえます。というのは、最終地点をめざしながら生きる人間というのは、この世界においてはそれほど数が多くないからです。
しかし、狂っているというならば、むしろこの狂気をほめたたえるという道もありうるのではないだろうか。エマニュエル・レヴィナスの表現を借りるならば、哲学の営みに必要であるのはこの聖なる狂気にほかならないと言えるかもしれません。