イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

聖人について

 
 「哲学が目指すところのあるべき人間とは、ある種の聖人にほかならない。」
 

 「あるべき人間」という形象が、人間に許されるかぎりでの最高の善を体現しているならば、そうした人を呼ぶための言葉としては、この聖人という語くらいしか残されていないといえるのではないか。
 

 聖人とは人間性イデアルな極限です。そんな人間はこの世のどこにも存在しないけれども、もしも生の探求者が目指すべき地点があるとすれば、その目標は突きつめればこの極限へとことごとく還元されるのではないだろうか。
 

 生前のマザー・テレサはしきりに、「私たちは聖人を目指さなければならない」と強調していました。また、ジョン・コルトレーンが残した「わたしは聖人になりたい」という言葉は、音楽家でさえも最終的にはこの極限への関わりを持たずにはいないということを示しているように思われます。
 

 聖人の「何性 Quidditas」を探求する哲学者自身はいうまでもなく、聖人ではありません(すでに見出したものをどうしてなおも探し求めることがあろうかという、あの古くからの表現が思い出される)。けれども、哲学者は聖人とは何かという問いを、この世の他のどんな営みにもまして深く突き詰めようとします。
 
 
 
マザー・テレサ 聖人 哲学 何性 現代 ニヒリズム 不可能性
 
 

 現代という時代は言うまでもなく、聖人のような人がこの世に現れることに対して前向きではありません。この非積極性にはそれなりに十分な根拠もあるように思われますが、その一方で、それにより失うものも大きいという側面もあるのではないか。
 

 目指すべき極限を見失ったとき、人間は生の意味そのものも失います。聖人の消滅とニヒリズムの台頭という二つの現象は、おそらくこの時代をしるしづける動向において、同じコインの裏表のような関係にあるといえるのではないだろうか。
 

 不可能性をそのままに受け入れつつ、それでも不可能性に固執しつづけることは、哲学が示しうる気骨とも意地ともいいうるものです。この固執だけは、どんなことがあっても哲学が手放してはならないもののように思われます。