イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

子供と資本主義

 
 フィクションという主題にはこのあとすぐに立ち戻る予定ですが、今回は関連する一つの論点を瞥見しておくことにします。
 

 「子供と資本主義の原理とは、できるだけ距離を遠ざけておいた方がよいのではないだろうか。」
 
 
 中学生以降の青少年の場合には、「自らの力で自分の善を選びとる判断力を持っているか」という点はかなり微妙な問題で、さまざまな意見がありうると思います。しかし、こと小学生以下の子供たちに対して「そうした判断力はまだない」という点については、ほぼ大多数の人から同意を得られるのではないでしょうか。
 

 いずれ詳しく論じることにしたいと思いますが、現代の人間は〈善〉への信頼が揺らいでいるので、自分がはたして「まともな大人」なのかどうかについても確信を持ちにくい傾向にあります。この事態には、前の時代と比べてメリットとデメリットの双方があるのではないかと思われますが、私たちの世界が全体として、大人であるということの意味を見失いつつあることは確かです。
 

 しかし、その一方で、どう考えても未成熟であるとしかいえない現実の子供たちは、次々とこの世界に生まれ落ちてくる。自分が子供であるのか大人であるのかわからない現代人もまた、かつての時代の人々と同じように、子供たちとどう向き合うかという問いにどこかで直面せざるをえない……。
 
 
 
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 前置きが少し長くなりましたが、そうなってくると、この時代が抱える最も大きな問題の一つは、子供と資本主義との間の距離がかつてないほどに縮まっていることなのではないか。
 

 言い方は悪くなってしまいますが、YouTubeやゲーム産業をはじめとして、子供は資本主義にとって「最も金になる」ターゲットです。情報コンテンツを取引し、SNSと連動しながら活動している現在の資本主義は、若年層に向けての戦略をますます活発に展開しつつあるように思われます。
 
 
 もしも子供たちが、守られるべき対象であるかわりに、利潤の源泉として、ある種の焼き畑農業的なビジネスに取り込まれている可能性があるとしたら……。今回は問題の所在を指摘しつつ、この後はフィクションの倫理という本来の主題を論じることにしますが、この話題にはいずれまた立ち戻ることにしたいと思います。