イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「汚染の可能性」

 
 前回論じたことを、今回は別の視点から取り上げなおしてみることにします。
 

 「フィクションは、毒にも薬にもなりうる。」
 

 良薬としてのフィクションについてもいずれ考えておきたいところですが、今回は毒の側面に焦点を当ててみることにします。
 

 「精神の毒」の存在言明:
  人間の心に害のある思想なるものは、存在する。
 

 思想の自由が認められているこの現代においては意識に上りにくいことですが、この世に犯罪があるのと同じように、人間に害をもたらす思想というものはおそらく存在します。ただし、仮にそういう思想が存在するとしても、どの思想がそうであるのかを指摘できるのかどうかは別の問題になりそうですが……。
 

 これはいわゆる理論だった思想だけではなく、人生観や生き方と呼ばれるものにも当てはまります。すなわち、日常生活において何かを感じるその感じ方、話す時のその語り口、行動のしかたなどのうちにも、自分にとって有害なものが存在しうるということです。
 

 よく考えてみると、これはとても恐ろしいことなのかもしれません。もしも自分が自分でも知らないうちに、毎日自分自身の魂を少しずつ堕落させているとしたら……。
 
 
 
 フィクション 良薬 毒
 
 

 あまり気にし出すと、それこそそのことが原因で病んでしまいそうなので、気を楽に保つことも重要であることは言うまでもありません。ただし、「魂の毒」についての注意を働かせておくことは、この毒について語られることが少ないぶん必要であるように思われます。
 

 フィクションという本来の話題に戻ると、現在、私たちの周りにあふれているさまざまな作品のうちには、程度と分布の差はあれ、精神の毒であるものもいくぶんかは存在しているのではないかと予想されます。
 

 実情としては、「毒にも薬にもならないもののうちに、毒素の強いものもたまに少しある」くらいで済むかもしれませんし、最悪の場合には、「映画からTVドラマ、マンガに至るまで、ほぼすべてが何らかの意味において汚染されている」という可能性も、少なくとも理論上は否定できません。
 

 このあたり、何が毒で何が薬であるのかについては原理的に謎の部分が残らざるをえないので(すべてを判断しうる聖人は、この世に存在しない)、大変に悩ましいところです。なお、このブログも精神の衛生管理面においてはできるかぎりの注意を払ってはいますが、哲学者としては、自分自身が書いているものが汚染されている可能性をつねに想定しておく必要があるように思われます。