一見すると問題がなさそうなこれら三つのアレテーですが、これらのみでは善性を保証できないことを示すのは、それほど困難ではなさそうです。
まず、友情ですが、もしもこのアレテーが限定されたメンバー間の親密な結びつきを意味しているならば、その友情がそのまま暴力の行使になだれこんでゆく可能性を排除することはできません。同胞愛にもとづいて敵である他者に攻撃を加える際には、その「友情」が暴力を美化することさえありえます(「仲間でヤツらを倒すんだ!」)。
次に「努力」に移ると、目的の善性が保証されないかぎり、努力そのものがよいものとされることはないといえます。大量破壊兵器の製造に勤勉に打ちこんだとしても、その努力を、少なくとも無条件では褒めたたえるわけにはゆかないからです。
最後に「勝利」ですが、これがよいものであるとは限らないのは論をまたないでしょう。核戦争に勝利して相手側を撃滅したとしても、その勝利は血塗られたものでしかなさそうなので……。
このように見てみると、「友情・努力・勝利」という3つのアレテーはいわゆる善悪無記(アディアフォラ)という性質を持っていることがわかります。これらの徳は、それ自体は善でも悪でもありえず、従って、それらがどんな結果を生み出すかを決定するものではないからです。
すぐれたマンガ家は皮膚感覚のレヴェルでこうした事情に通じており、それぞれこのアポリアに対する解決策を模索しているとはいえ、少年マンガの三理念が原理的な危険を含みもっているということは、どこかで意識しておく必要があるのではないか。たとえば、あのナチス第三帝国もおそらくはこの「友情・努力・勝利」を明確に肯定するであろうことを考えてみると、少年マンガが抱えるこの危うさは無視できないものとなってくるように思われます。