今回からの探求は、次の言葉を取り上げることから始めたいと思います。
「生まれてこなければよかった。 Better never to have been.」
デイヴィッド・ベネターの著書のタイトルにもなっているこの言葉は、彼の書物のみならず、あらゆる時代の思想や文学のテキストのうちにも散見されるものであるといえます。
人生のどこかの時点でこの呻きをもらさずにはいられなくなる人の数も、おそらくは決して少なくないのではないでしょうか。しかし、この「Better never to have been」が一つの思想にまで高まるとすれば、事態は少し変わってきます。
反出生主義の根本直観:
人間にとって、存在することは害でしかない。
反出生主義の立場は、「Better never to have been」が個々の人にのみならず、すべての人間に当てはまると考えます。
ここにはおそらく、哲学の巨大な問題圏が広がっている。ある意味ではニヒリズムの究極ともいえるこの思想について、私たちはどう考えたらよいのだろうか……。
反出生主義者にとっては、人間とは、本当は生まれてくるべきではなかったのに、いわば本人の利害に反して生まれてきてしまった存在にほかなりません。したがって、彼あるいは彼女が他の人間に対して提示する世界の改善策は、必然的に次のようなものになってきます。
反出生主義者の主張:
これ以上、新たな人間は生まれてくるべきではない。
私たちはこの世に生まれてきてしまったので、いわばもう手遅れであるし、すでに様々なしがらみに縛られてしまっている。しかし、未来については、この誕生と死滅の連鎖自体を停止できるならばその方が望ましいのではないかと、反出生主義者は考えるわけです。
何とも極端な思想ですが、筆者のまわりには、この思想に共感する人の数は少なくありません。筆者自身は反出生主義者ではなく、いち信仰者に過ぎませんが、これからこの思想について哲学の立場から少し掘り下げてみることにします。