イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

滅びとしての公共善

 
 「あなたは、なぜまだ生きているのか?」という問いに対する、反出生主義者の答えを検討してみることにしましょう。
 

 反出生主義者の回答その1:
 「私がまだ生きているのは、人類の善の促進のためである。」
 

 この場合、善とは人類の可及的速やかな絶滅の完了を意味します。
 

 そう言うと、「一体、そのことのどこが善なのか」という疑問が浮かんでくるのはもっともであると言えますが、もしも「存在することはあまねく人間にとって害である」という反出生主義者の信念が正しいならば、人類は、論理的にみて存在するよりは存在しない方が望ましいということになってきそうです。
 

 ここで注意しておきたいのは、反出生主義者は、いわゆる普通の思考からはかなり逸脱した価値観を持っているとはいえ、(少なくとも自己認識としては)人類の善というイデーを放棄しているわけではないという点です。彼あるいは彼女は、自分のルサンチマンや趣味嗜好からではなく、公共善として人類の絶滅が望ましいと考えているといえる。
 

 たとえば、公共の場所での喫煙が禁じられ、タバコが次第に高額になってゆくのは、人類の健康の促進という善のためとされています。それと同じように、子供の出産を減らし、これ以上存在するという苦痛を被る人間が出ない方向にむかって努力してゆくのは、悪ではなくむしろ人類の善への奉仕でさえあると、反出生主義者は考えるわけです。
 
 
 
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 めちゃくちゃな思想に聞こえることは否めませんが、思想の自由を認めているこの現代の世界においては、たとえこうした思想を持っていたとしても、少なくとも社会的な弾圧を受けることはなさそうです(ただし、批判についてはこの限りではない)。
 

 「子供を産みたい」という人の意志を無理矢理に押さえつけることは難しそうなので、反出生主義者の数が増えてきた時には、あるいは出産の害を訴えるキャンペーンのようなものが張られることになるのでしょうか。「出産、ダメ、絶対」というコピーまでくるとなると、さすがにやり過ぎなのではないかという気もしますが……。
 

 いずれにせよ、反出生主義者のこの回答とともに、公共善とは何かというトマス・アクィナス以来の哲学の大問題がよりくっきりと浮かび上がってくることには変わりがなさそうです。なお、筆者自身はアンチ出産主義者では全くなく、通常の分娩であれ帝王切開であれ、新たな命の誕生を祝福するのにやぶさかではないことを、最後に付け加えておくことにします。