『カゲロウデイズ』のような作品(分析については、前回の記事を参照)は、人間の心が、第二の死というモメントに関わらずにはいないことを示しているといえます。
定義:
第二の死とは、死んだ後に人間を襲う、終わりのない苦しみのことである。
フィクションにおいては、この第二の死は死ぬことを、リセットあるいはゲームオーバーを無限にくり返すこととして表現されることが多いといえます。たとえば、バッドエンドを迎えて死んだ主人公が目を覚ますと、前と同じ状況にふたたび置かれていることに気づくが、またしても死に、さらに……という具合です。
これは、まさしく語の呪われた意味における「黄金体験 Gold Experience」であるといえますが、ここからは、ただちに次のテーゼが導かれるのではないかと思われます。
苦しみの最上級テーゼ:
人間にとって想像可能な最大の苦しみとは、第二の死における苦しみの無限反復にほかならない。
もちろん、現実に第二の死のようなものが存在するかどうかは誰にもわかりませんし(そして、自然科学の成果がこの第二の死の実在を示唆することはなさそうである)、そんなものは作り話の中のものにすぎないという人がほとんどでしょう。しかし、もしも本当に存在するとすれば、それこそ最悪中の最悪ともいえる苦しみであるということには、それほど異論がないのではないでしょうか。
たとえば、この第二の死における苦しみは、死による消滅よりもずっと恐ろしいものであると言わざるをえないのではないか。
筆者は、死による自己の消滅を恐れる人間のひとりですが(この点については、救い主による救済の確かさを信じるほかない)、ゾンビに永遠に肉体を貪りつづけられるくらいなら、消えた方がいいと願ってしまうかもしれません。
出産の苦しみは実にすさまじいもので、もしも男性がそれを体験するとすれば、とても耐えられないものであろうとよく言われます。考えるだに恐ろしいことですが、分娩級の痛みを数億年にわたって味わいつづけるとすれば、人間はもはや発狂するほかないのではなかろうか……。
ともあれ、この第二の死という形象は、さまざまな哲学上の問題に関係しているように思われます。反出生主義との関連も考慮しつつ、これから少しこの主題について考えてみることにします。