イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

悔い改めの可能性

 
 「地獄と悔い改めのあいだには、一筋縄ではゆかない関係があると言えるのではないか。」
 

 すでに論じたように、もしも人間が本当に地獄にゆくようなことがあるとすれば、その人がそれまでの生き方を悔いることはまず間違いがないでしょう。その場合には、それならばもっと早く悔い改めればよかったのにということになりそうですが、ここでの事情はもう少し複雑であると言わざるをえないのではないか。
 

 なぜなら、悔い改めるためには、その人は地獄が実在すると前もって信じていなければならないからです。逆を言えば、もしも人が地獄が実在すると信じるようになるならば、おそらくその人は悔い改めに至らずにはいないことでしょう。
 

 ここから、二つの死との関係における悔い改めのモメントについて、その難点を対比してみることができそうです。
 

 1.死あるいは肉体の消滅:
  死を恐れていない人には効果がない。
 2.第二の死あるいは地獄:
  地獄の実在を信じていない人には効果がない。
 

 二つの死のどちらの場合にも、人間を必ず悔い改めに至らせるというには少し足りないところがあるようです。倫理的本来性までの道のりは、長く曲がりくねったものであるということなのでしょうか。
 
 
 
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 そもそも悔い改めとは、人間が、それまでの生き方そのものを全人格的にむけかえて、新しい人として再び生きはじめることを意味します。要するに、いわば一度死んで生まれ変わるわけで、まずは死ななければならない以上、そう簡単に起こることではなさそうです。
 

 おそらく、たいていの場合には、人間は「もうこんなことは絶対にこりごりだ」というくらいに痛い目を見なければ、悔い改めに至ることはそうそうないと言わざるをえないのではないでしょうか。
 

 例えば、1945年以降の人類がおおむね「世界平和は大切だ」という点において一致を見てきたのは、言うまでもなく、二度にわたる世界大戦という地獄を人間が味わったからです。これらの戦争の悲惨さは筆舌に尽くしがたいものであったので、人類はさすがに悔い改めを余儀なくされました(ただし、もろもろの紛争はその後もなくなることはなかった)。
 

 しかし、その後の歴史、特に21世紀以降のさまざまな出来事を眺めていると、どうも人類は過去のカタストロフの記憶を忘れはじめているのではないかという気がしてなりません。この点、真面目に考えだすと底の知れない憂鬱の深みにはまりこんでゆくことは避けられなさそうですが、2018年現在、人類はそれほど急速ではないにせよ、新たなる地獄に向かって、着実かつ順調に歩を進めていっているのではないかという可能性が懸念されます。