イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

例外者の論理

 
 「デスノートの使用は、公共善のための殺人はありうるかという問題を提起している。」
 

 前回に見たロジックをもう少し掘り下げてみることにします。「粛清」によって世界の変革に乗り出すデスノート使用者にとっても、人を殺すことが基本的に悪であることには変わりありません。
 

 しかし、とデスノート使用者は言います。今は例外状態、すなわち緊急事態なのである。この世には悪がはびこっている。世界がこのまま続いていていいはずがないではないか。
 

 従って、この世界から暴虐と悲惨がなくなるまでの間は、暴力的な手段を用いることもやむを得ない。過酷な話ではあるが、100人を救うために1人を殺さなければならないとしたら、誰かが手を下さなくてはならない場合もあるのだ。
 

 ……このようなロジックが他者たち、特に殺される側の人たちに通じるかどうかは別にして、デスノート使用者の主張はいちおう一貫してはいます。とりわけ、彼(ここでは仮に男としておく)の最後の言葉には、考えさせられずにはいない問題提起が含まれているといえるのではないか。
 
 
 
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 公共善としての殺人に関する問題その1:
 このままでは死んでしまう100人を救うために、1人の悪人を殺すことは罪になりうるか。
 

 これは人によって答えが異なってくる問いであると思われますが(細かく見るならば、状況や「悪人」という語をどう定義するかにもよる)、デスノート使用者ならば、罪にならない場合もありうると答えることでしょう。
 

 悪のない新世界がやって来るならば、そこにはもう悲惨と暴虐に苦しむ人間はいなくなる。巨大な善をもたらすために犯される罪は、もはや罪とは呼ばれえない。痛ましい犠牲ではあるが、公共善のためには必要なことであると言わざるをえない……。
 

 デスノート使用者の独白は、かくして、革命や戦争の正当化の問題に連接します。ここからはさまざまな論点を引き出すことができそうですが、とりあえず、デスノートに関してただちに問うことのできる点から議論を進めてゆくことにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
[筆者自身は、デスノートの使用には反対の立場です。なお、革命については、以前に一度倫理観が根拠との関連で考察を加えてみたことがあります。]