イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

粛清の血は路地の溝を流れる

 
 100人のための1人の犠牲というロジックが仮に認められたとしても(詳細については前回の記事を参照)、その際には次のような問いを避けることができません。
 

 「例外状態において、生きる人間と死ぬ人間との決定を、誰が行うことができるのか。」
 

 この問いに対しては、デスノート使用者は次のように答えざるをえないのではないかと思われます。
 

 デスノート使用者の論理その2:
 デスノートの使用による世界の変革という例外状態においては、人間の生死の決定はデスノート使用者が行う。
 

 これはあの、「ナポレオンはあらゆる法規を超越する」を彷彿とさせる論理です(19世紀ヨーロッパにおけるナポレオン崇拝の熱狂があわせて想起される)。ドラスティックに世界が改革されてゆく時代においては、断固とした決定を実行することのできる力が必要であり、目下の文脈においてはその力こそデスノート使用者に他ならない、というわけです。
 

 ジャン・ジャック・ルソーの「立法者」にしろ、あるいは革命ロシアにおける「すべての権力をソビエトに!」にしろ、公共善が個人に対して大きな制限をかける局面においては、必ずこのロジックが持ち出されることになります。デスノート使用者の場合、主権にアクセスできる権力や何らかの政治的勢力ではなく、個人という存在が世界全体の緊急事態への移行を秘密裏かつ一方的に宣言するという意味において、事態が際立っているといえます。
 
 
 
 デスノート ナポレオン ジャン・ジャック・ルソー 革命ロシア ソビエト 公共善 粛清
 
 

 この点からすると、すでに用いたことのある「粛清」という表現は、デスノートの使用を形容するのに(ダークな意味で)適切なものであるといえます。
 

 人類は、救いがたいほどに堕落している。しかも人類は、堕ちるところまで堕ちているにも関わらず、自分たちではそのことに気づいていない。これはあたかも、致死性の病に罹っていながらそのことを知らない病人のようなものである。
 

 デスノートの使用による粛清によって、人類の堕落は告発される。善人は喜び、悪人は怯え、乱れきった風紀は正され、道徳心は向上する。血が流れることをも辞さない断固とした粛清が、人類をまるごと浄化するのだ……。
 

 ……もはやここまで来ると、ほとんど狂気そのものとしか言えないレヴェルに達しているように思われますが、本当に恐ろしいのは、これに似た論理が地上で実行に移された例は数知れないという事実の方かもしれません。とりわけ、20世紀の人類の歴史はこの例外者の論理のダンスフロアーとでもいうべき様相を呈していたことを、最後に付け加えておくことにします。