イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「勝てば官軍」

 
 今回は、次の論点について考えてみることにします。
 

 「人間は、それが善きものであれ悪しきものであれ、力そのものを崇拝する傾向を持つ。」
 

 この国における最も分かりやすい例の一つとして、織田信長をめぐる評価のあり方を挙げることができるかと思います。
 

 多くの人が織田信長について、断固とした決断力を持った有能な人物として語ります。その際、彼が個人のレヴェルにおいても集団のレヴェルにおいてもきわめて残虐な殺人を倦むことなくくり返した人物であることは、棚上げされる傾向にあります。
 

 彼は、自分の部下だった人間の頭蓋骨で酒を飲み、浄土真宗門徒たちを容赦なく皆殺しにした人物です。それにも関わらず、今日、彼の名前は歴史のドキュメンタリーのみならず、ビジネス界でも大抵は賞賛される傾向にあり、彼のファンも後を立ちません。
 

 確かに、彼が生前に行った公共善への貢献もきわめて大きいのはまぎれもない事実なので、事情はかなり複雑であるといえます。それでも、人間には現実に勝利した人物を、まさに勝利したということにおいてのみ崇拝する傾向があるということは、否定できないのではないかと思われます。
 
 
 
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 要するに、政治哲学の要とは、とにかく勝って勝って勝ちつづけることである。人民には、恐怖を適切なしかたで与えておくくらいが丁度いい。決して甘く見てはならない冷静沈着な気狂いだと思わせておくならば、統治と策略は何の滞りもなく進むことだろう……。
 

 このような考え方は、チェーザレ・ボルジアにイタリアを救う希望を見たニッコロ・マキャヴェッリのような人間が奉ずるものであるのみならず、デスノート使用者の行動原理そのものでもあります。
 

 今の人間が正義そのものに嫌悪感を感じているのは、正義に力がないからだ。もしも正義に、人間を殺して殺して殺しつくすだけの力があるならば、本物の血による勝利があるならば、人々は正義に立ち返るだろう。人間を動かすのは理屈ではなく、闘争における現実の勝利の方である……。
 

 ……以上のようなロジックが本当に正しいものであるかどうかは別として、軍事的な勝利はどんな国においても無条件で政権の支持率を上げるというのは否定することのできない事実です。「崇拝されるまで殺せ」が少なからぬケースにおいて有効な格率になりえてしまうという意味では、この世というのはまことに恐ろしい場所であるように思われます。